角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

風のまち。

 

今ネットで「波乱万丈マウンティング」という言葉を読んで納得した。
苦労話とか不幸話はするのも聞くのも苦手だ。昔、母が私のことを「苦労したから」云々と言ったときとてもびっくりしたのを覚えている。私自身は自分が苦労をしたなんて全く思っていなかったし、人生を諦めたくなったことなんかなかった。
第一に私は健康だったのでそれが有難かった。そうでなければ気持ちが身体に引きずられてしまったかもしれない。
 
でも、いかに健康体といえども今までとは同じようにいかなくなるのが老化というものなので、せっかく健診票が送られてきたこともあり、本日は区民センターにて健康診断を受けてきた。
 
昨日よりも寒くて仕舞い込んだユニクロの薄手のダウンを取り出して着用。
風も強いため午後からはどこにも行かないで苺ジャムを作ってみた。苺は生ではなくて冷凍果実を使用したけど無問題。
ホーローの小さい鍋があって、それこそジャムを煮たりスープを作るのに重宝して大事にきれいに使っているけれど、私の後は誰が使うというわけでもないので調理が面倒になったら捨ててしまおう。
 
若い世代は親世代の使ったものなどは使いたくないという気持ちは理解している。

息子も忖度系の人間なので拙宅で使わないものを上げましょうかと聞いても必ず断ってくるので、店で使っていた業務用の大きなまな板なんかも新品同様で使い勝手の良いものだったけれど、確認せずに処分した。おひつもご飯が美味しくなって実に良い物だけれど、こういうものも使われないだろう。
桐の米びつがあるけれど、そういうものも使われないのだろう。いずれまとめて全部処分することにする。

ものの寿命があるのに捨てるのは本当にしのびない。勿体ないと思う。きっと現金以外の全てのものは私一代限りのものであると捉える方がいいのだろう。全身のうつる大きな一枚鏡もあるんだけど。これは私が小学生の頃からある。裏に父の文字で贈り主の名前と年月日が書いてある古いものだ。もちろん鏡としての機能は何一つ衰えていない。
そう考えると自分がちまちま生きてきた暮らし自体が全部ゴミになるような気がしてくる。歴史がゴミになる。
 
まちなかで、何か不穏な文字を書いた黒いトラックがのろのろと走り、ただただ大声で怒鳴り酷い悪態をついていたので、そんなものが公道を走ること自体が気味悪く、ますます終末観が濃く感じられた。