角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

対立を構造する。

 

えーっと、吉本隆明という人は、とても難しい言葉をひらがなで書いて、ほら、ひらがなで書いたからみんな読めるし、分かるでしょう、と言ってるような気がして、苦手だ。読んだことないけど。
むかし、仕事関係者が何冊か一気に強制的に貸してくれたけど、全然貸してくれと頼んだ事実はないのに、読めと言われたけど、読めなかったし。第一貸してくれた人を、私ゃ大嫌いで、話しかけるなオーラをまとっていたつもりなのに、オーラレベルが低かったんだと思う。
  
難しいことは苦手だと言っているではないか。と逆切れしそうになる。
  
受け売りだけど、キルケゴールが『人間とは精神である。精神とは自由である。自由とは不安である』と言ったらしくて、それゆえ人間は『不自由になりたがっている』のだそうだ。さっきネットで見たことを書いてみた。
お疲れ様なことでございます。
  
で、吉本隆明にもキルケゴールにもなんら関係はないのだけれど、きのうリストアップしなかった映画の中でインビジブルというのがあった。これは透明人間になってしまう話で、1と2があって、2のほうは1に比べてとても評価が低く、残念とされている作品なのだけれど、私は2の方を強烈に覚えていてこわかった。1と2、両方見ないと怖さが実感できないと思う。
 
簡単に書くと、1作目では、透明になったらつい狼藉に及んでしまい、その上残虐性が高まるよね、という感じ。2作目はとても優しく誠実な人が、愛する人のために敢えて自分を透明化してしまうのだけれど、残虐性の兆しが発現し、それを怖いと思った。
あらかじめ人間の性質が悪であると想定されているようで気味が悪かった。
 
過日、日経BOで連載されていた介護実体験の記事があり、その中で認知症というのは、高じると直前の記憶を失うとあった。転んで痛い思いをしても、流れる血を見て、すでに転んだことを忘れているから、なぜ血が流れているのか分からないらしい。
 
速やかに記憶をなくす、何も覚えていないということには、関わる人間を透明化するような側面があると思う。
心の底からぞっとする。
 
 
誕生のときも、みまかるときも、もはや一生物の一個体としての自由さが失われていて、一体なにゆえに最期を管理されなければいけないのか、誰が差配しているのかと、私はいつも考える。自然死すらかなわないのであれば、人為の最たるものとしての安楽死の権利を得たいものだ。
 
記憶から瞬時に消えた、心に残らなかった、痛みや屈辱や無念や憤りや絶望を思う。
そんな最期のために生まれてきたのかと、命を呪ったかもしれない人々の。