角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

蕎麦買い。

 

えーと、凄い雪降りだったんで、外に出た。蕎麦を買いに。五勝手屋羊羹の小さいのを見かけたので、ついでなので買ってみた。悲しいことがあったら食べようと思ったけど、気になって仕方がないので食べちゃった。 
 
唐突だけど、フードバンクという取り組みがあるのを知った。内容は農水省のサイトに詳しいが、食品ロスの削減にも有効であることが期待されてるみたい。
食品の廃棄については結構気にしている。それは自分の店での実体験で着目するようになったことだけれど、先の職場においても廃棄はむやみにあった。
 
まず、ごはん。残ったごはんは計量して記録する。副菜があほらしいものであるとき、というと大変語弊があるけれど、とにかくあほらしいものであるとき、要するに、自宅であるなら「こんなもんで飯が食えるか」という暴言を吐きかねない惣菜状況のとき、ごはんは盛大に余る。
私の記憶で最高は3.4kg余った。食が進む内容のときに、ごはんの残量は少なく、1kgくらいのときもある。こんなのは稀で、大体2キロから3キロの間になる。一日ではなくて、毎食、こんな状況なので三食ともごはんの日は10キロ近くが捨てられている計算だ。
残るものはご飯だけでなく副食、汁もの、なんでも残る。全て廃棄する。
果物も残る。皮をむいて切った果物ならまだしも、バナナや冬みかんなどはそのままの状態で提供されるから、捨てるときもそのままだ。「何の罪もない」バナナやみかんがそのまま捨てられる。
 
毎日捨てていると感覚的に麻痺してしまい、調理台のうえに忘れられたミカンがのっていたときに、迷わず捨ててしまい、自分の意識に驚いた。罪深いことだと思った。
  
数日間くらいは我々の休憩室内の冷蔵庫保管となり、自由に処分(飲食)して良いのだけれど、きれいになくなることは皆無だ。持ち帰りは許されていないため、捨てるしかない。お昼はパン食のこともあるけれど、これだって、開封もされていないまま多量に無造作に捨てられる。パッケージに入ったデザート類もそのまま捨てられる。
わたくしたちは捨てることに何の呵責も覚えなくなり、ためらわなくなる。
  
惣菜は洗濯タライのような容器に作られたりして、我々が人数分の食器に盛り付けるけれど、時によってずいぶん多く余ることがある。栄養士がいて、一人あたりの栄養価やグラム数を曲がりなりにも計算しているはずなので、多いからといって、それなり多く盛り付けるというわけにも行かない。
 
材料の少しを次回のために取り置くというような、家庭や一般飲食店では当たり前のことが、こういう施設ではできない。献立通りに発注がなされ、当日の分は当日使い切らなければ、保管場所がないからだ。以前、店の時に、スペースも経費だと書いたけれど、まさにそういうことだ。たくさんの冷蔵庫を保有しているわけではないから、大根であれ、ゆでたホウレンソウであれ、さっき開けたばかりの果物の缶詰であれ、行き場所がなくなる。
自分の短い期間の観察では時に、4割近く捨てられたのではないか、と思ったこともある。
 
実に恐ろしいことだ。
なぜそんなことになるのかと言うと、献立が下手、見積が下手、それと味付けの悪さに尽きる。ような気がする。こういう施設の献立は、市のものだから、市が用意してくれる、というような話ではなくて、施設に一人いる栄養士に一任の、極めて属人的な問題だ。
大量調理というのは美味しくつくる料理のことではないので、どこの施設だって似たり寄ったりではないかと推測するけれど、勿体ないこと、店の比ではなかった。
 
そして施設や団体ではその性質を問わず食事の献立というものは必ずあるはずだ。
 
  
フードバンク活動をしているほとんどの機関では、福祉関連の施設や支援団体に余剰の規格外産品や食品を、ボランティアなどの人たちが送り込んでいるようだ。
効果については提供する側と、受益者側の双方向からの検証が必要だろうと思ったら、みつびし総研が長大な調査報告書をUPしていて、きちんと受益者側の調査も行っており、やはり活動の難しさが析出していた。
 
自分なんかも子供の時に、残してしまった副菜について勿体ないと叱られ、外国の某地域では飢え死にしていると言われたり、余剰食品を分けてあげられたらと思ったりしたけれど、食品の過不足ない分配というのは本当に難しいものだ。
必ず余剰しているところと、必ず不足しているところがあるにも関わらず、適切なマッチングというのは不可能ではないだろうか。そして多分それは食以外でもそうなんだろう。絶対アンバランスの上に成り立つ均衡のような。
これは合成の誤謬というよりは誤謬の合成のような感じかな。と言ったりすると、昔、坩堝的興奮と書いた人を思い出した。