角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

裏切られるいやらしさ。

 

私はなんだかとても疲れてしまって、そういう時は涙がバラバラとこぼれるようなことは絶対になくて、微熱を持て余す子どものごとく涙っぽい目をぐずぐずとぬぐったり鼻をかんだりして曇天の一日を過ごすのだ。確か包丁を研いだのは一昨日だった。今日は永遠に包丁なんかに触りたくないと思う。
 
満杯の冷蔵庫を私は嫌っていた。消化しなくてはいけない餌箱だと思ったからだ。
炊飯用の土鍋がふたつある。オイルポットがふたつある。何か増殖したようにふたつもみっつもあるのは、わたくしの自我が増大したのではなくて、分裂したのだ私は。
にぶんのいちやさんぶんのいちの私が冷蔵庫を開けると、野菜室には野菜がいっぱいだ。キャベツも白菜も春菊も小松菜も茄子も人参もたまねぎも、お得意のメイクイーンもさつまいもも胡瓜もある。切られ待ちの食われ待ちの、どれともつるみたくない絡みたくない、厨房に立つのは嫌だ。
 
私に相応しいのはからの冷蔵庫だ。からの冷蔵庫の「から」をむさぼって「から」に飽食する。胸いっぱいの「から」に身体が重くなる。心が垂れ下がる。記憶がないのは、記憶を執拗に拒んでいるのかもしれないし、感覚を失うほどの冷たさに溶けなくなった記憶の氷なのかもしれない。
 
モノは、人をゆたかにしないよ。
 
鍋も包丁もまな板も、ザルもボールも栓抜きも、茶碗も茶托も茶筒も茶葉も。
 
 
きょうみたい日はときたまやってきて、泣くとも笑うとも、眠るとも起きるとも、生きるとも死ぬともつかない隙間に私をぎゅうぎゅうに押し込んで、紫色になるまで小突き回すのをやめないから、私は不毛の大きさがいかばかりかを知った。そこで私はそんなに話をしなくてもよくなった。
   
同情せず慰めもせず叱りもせず評価せず、当たり前を淡々と大真面目に語ってくれたらいいのだ。
一時の高揚もマッチ棒のあたたかさも要らない。本当のことを話してくれたらいい。
  
今日読んだ記事では、「傘を貸してくれた人たちを裏切らないためには、途中で放り出したり、適当にやっちゃダメ。期待したような結果が出なくとも・・・云々」とあった。
私は人を裏切ったのだろうか。ものすごく頑張って頑張ってそれでもだめだったときに初めて人が認めたり許したりしてくれるとしたら、なんていやらしいことなんだろうと思う。人が人に対して正しいという判断をくだしたり、人が人を許す権利なんてあるんだろうか。誠実に生きるとは死ぬことと見つけたり、とでも言うのだろうか。
 
 
私、きょうは震えていた。いちんち震えて過ごした。震える以外のなにひとつもしなかった。