角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

私が見逃した満月。

 

ああもう孤独力のインジケーターがあるんなら、針が振り切れるほど強い力がありありです。あと、ふろふき大根はもうたくさんです。
大根的余裕があったので、家で2度ばかり作った。お店のもごちそうになった。昨日、2回目の懐石料理の教室で向付がふろふき大根だった。お店の方は原価の制約があるから、一番口に合うのは自作品なんだけど、冷蔵庫にまだあるので、扉を開けるとなんとなく険悪な気持ちになる。
 
懐石料理の教室というのは、いわゆるカルチャー教室で、実店舗を営業している先生がこられる。シンプルでしっかりした料理を教えてくれるし、茶事の料理なので意味だとかしきたりだとかも教わることができるから、もう10年も通っている人がいるらしい。どんな人が通っているのかというと、平日の昼から夕方までなので、年配男性がひとりいるだけで、あとは全員主婦。しかも「カイセキリョウリを習ってますのよ」的な、ある程度余裕があって年齢層の高い主婦だ。つまり、私のような徒花みたいのはいない。主人が主人がと言いだす人がいて、自分がエイリアンになった気持ちがする。息子の自慢でもしてみよっかな~。
 
クラスメートだった人は、なんとなくよそよそしいメールをよこして、何か資格取得のために日々の生活のほとんどを勉強に費やすと書いてあった。だから私とランチする暇なんかないのよ、みたいな。
彼女もまた第二の人生を充実させようとはりきっていて、いろんな資格を集めている。世の中的には、紙切れ一枚の資格のほうが現業・体力勝負みたいのを見下す図式だから、自分が包丁や料理なんかの誰でもできるレベルのところで逡巡したりしているのが随分馬鹿に見えるのかもしれない。
  
私は勉強するのは美徳だと思うし、生涯勉強だとも思うけれど、生きたものにしなきゃ生きてきた甲斐がないような気がしている。そしてたいていの紙切れ資格は、現場で何の役にも立たないのだ。テキストの言葉を信じてうたがわないのだ。
うん、ちょっと私は嫌らしいかもしれない。優雅に勉強三昧で暮らしていける人をやっかんでいるかもしれない。あ、でも自分ならたとえば焼物を勉強して目利きになろうとは思わない。私ならば、下地としての学習はあったにせよ、自分で実際を見て、使いたいとか作りたいとか思うと思う。だって知識・情報だけでいいんなら、外付けハードを抱えていればいいんだし、どんなデバイスがあったって、そんなのは人柄でもなければ個性でもない。
  
仕事をするにしたって、年をとったら現場の仕事はできないとかみんな言う。少しマネジメント方向にまわらないと、とか言う。楽で利口そうな方を選ぶというわけだ。お勤め先で少し偉くなった人なんかは退職後、マンションの管理組合の理事長になったり、町内会の会長になったりしていくのが王道だとか聞いた。そして「元」のついた名刺交換をしたりするんだろう。
  
 
ひとのことはともかく、自分は随分勉強不足だ。つらいとか悔しいとか、そういうことではなくて、やっぱりもっと私は上手くなりたいと昨日の帰り道、何度も何度も思った。