角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

旅からひとつき経った。


話は少しさかのぼる。
3月の末に旅行にでかけたけれど、その1週間くらい前に、今いる会社に通うのはやっぱり嫌だということを、別な言葉で表明してたら旅行の前に出頭せよということになった。
 
説得されたので、やっぱり前言をいくつも翻して、通っている。
 
出勤も退勤も好きなようにしていいし、掃除だってしなくていいし、とにかく元気にここにいてくれればいい、というような驚くべきことを言われたので、お断りする理由がなくなったからだ。
 
好きなようにしていいと言われると、私は普通に毎日出勤するし、掃除だって、気が向けばする。
 
「好きなように」というのが私のキーワードなんだろうと思う。
 
「それじゃ、旅行から戻ったら出社しますぅ」と言ったのは、まだ内装もできてない時だったので、私が通いだしたのは、こじゃれた事務所がすっかりできた4月の中旬近くからだった。
 
2度目の沖縄行は、実は重い旅だった。
 
母の葬儀にご香料をいただいた叔母の一人が千葉にいて、ご挨拶をしに、まずは羽田から高速バスで市原に行く。20年ぶり位に会う叔母に、母の面影を見る事ができると楽しみにしていたが、驚いた。叔母の口からは母の性質について悪口ばかりを聞かされたからだ。
 
私は、調子を合わせて話し込み、夜になって辞去したが、文字通り口ナシになった人間のことを、しかも他ならない一人娘であるわたくしに話すというのは常識ある大人としては信じられないし、そういうことを日記に書いたりするのはまさに親族の恥みたいな気がする。
 
母が善そのものだったとは勿論思わないけれど。
 
私は滅多なことで人に反論とかしないから、そのときだって、母の弁解をしなかった。ご老人はただ物申したいだけなのであって、私が何かをいうことで考えが変わることなんかありえないんだし。
 
私は、相当にテキトーでいいかげんな人生を送ってきたけれど、それでも自分が、あの母の娘である、と思い出すたびに、自分は大丈夫だ、と信じてきた。なんだかそれが覆された気がして、自分が根源からいいかげんで大丈夫ではない育ち方をしたんじゃないかと不安になった。
 
それで、旅の間中、母の事を考えていて、おりからどこもかしこも強風の雨模様で肌寒く、旅のことを実はあまりよく覚えていない。
 
 
羽田発の沖縄行の便が遅めの便だったので、強風の中を写真美術館に行く。
余力があればもうひとところ、立ち寄りたいところがあったがパス。空港に戻ってからも出発が危ぶまれるほどの強風だった。
激しく楽しみにしていた久高島は、目を閉じたような真っ暗闇に、風の音がこわかった。食事に事欠いた。那覇の美術館で田中一村展を見る、という主目的は無事に果たした。海ぶどうは何箇所かでいただいたが、大変美味であった。
 
那覇からは羽田を経由せず神戸経由で帰札した。神戸に1泊。寒いのでユニクロでジャンパーを買った。大工道具館が良かった。南京町へは2度行った。劉家荘の炒飯が美味しく、曹家包子館の肉饅が美味しく2度買った。老祥記は両日とも行列ができていて、並ぶ気持ちにはならなかった。神戸は美味しそうなまちだ。ゆうめいどころのお菓子をお土産にしたが、これは全く私には合わず。帰りのスカイはweb割で8800円のチケットを購入できたが、存外、今までで一番良いフライトであった。静かだった。いたずらな咳払いもくしゃみもなく、バカな子供の、といって悪ければ、バカな親の子供の喚く声もなく。
 
前に新千歳から羽田へ向かう便で、シートベルト着用サインが消えるやいなや、すぐ後ろのご夫婦がはしゃいでしまい、赤ん坊をあろうことか、「高い高い」と抱き上げてあやし始めたことがあった。
もう十分高いだろうと思った。
 
先月の旅はこんな感じ。