角度ノート

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ほたる3月

 

3月の蛍は3月でなければならない。
3月の旅を失くした。失くした旅の重さで窒息しそうになった。
 
次の3月はこないかもしれない。次の次の3月はないかもしれない。
その次の3月に私がいるとも限らない。
いつの3月だって、来月の3月のようではないのだ。
 
トレッキングの雑誌も購入した。
水着も軍手も持っていくつもりだった。
足腰を鍛えておこうと、歩くスキーにも行ったし、水泳もした。
おうちトレーニングだってしている。
 
地域の文化論の本も買った。
読み終えて行くと、ものの見方も違うだろうと考えたからだ。
 
特別な3月だったんだ。
もうそんな3月は来ない。
 
去年の今日、私はカンディンスキーを見た。
数日後にジャコメッティを見る事になる。
 
いつの旅もどの旅も行きたくてたまらない旅で、どの旅も本当に嬉しかったのだけれど、3月の蛍は、これまでと少し違う意味を持っていた。
 
失くした理由は、仕方のないことだし、そちらの方がよほど大事だからこうなっているので、愚痴をこぼすつもりはないけれど、4月の意味が失墜したようで、少し怖くなった。
 
 
旅は私を迎えに来てはくれない。旅は自分が動きだすものだ。
自分が動かなければ一切がはじまらないのが旅だ。
 
そして私が恐れているのは、次の3月があったとしても、もはや蛍を見ようなどとは思えない自分になっているかもしれない、ということだ。