自分は冷淡なので、たいていのことに無関心だったり意に介さないことが多いけれど、それだから助かっている
ことだってある。うまくしたもんだと思う。
母が処方されているお薬一覧表みたいのを見た。なんとかという漢方薬がある。あと3種類が出されていた。
一進しているか一退しているか私はよく分からないが、気分のすぐれない日と、気分の全くすぐれない日がある
ようだ。
前にも少し書いたけど、私は過干渉を受けて育った。
小学校のとき毎日の平均帰宅時間をすぎると叱責と同時に説明義務が発生した。
中学校の校外学習のときは、のんびり遊びながら帰ると「ウチの子がまだ帰らない」とすでに学校に電話を入れ
たり、捜索願いの算段をしていた。
高校生になっても監視とか干渉とかがおさまらないので、私は授業をさぼって映画を見たりしていた。良く見た
。
大学のときはたまたま一時期、札幌を離れたので、これはもう思う存分羽を伸ばした。
就職して札幌に戻ると「結婚前の娘」ということで、干渉を受け、結婚前は会社の同僚と一度もアフターファイ
ブに遊びに行ったことがない。これは今思うと、とてもひどい話だ。一回目の離婚をしてから、朝帰りをしたと
きは、今捜索願いをだすところだったと真顔で言われ、くらくらした。
結婚・離婚を繰り返すと、さすがに治まりそうだったが、やはり無申告で帰宅遅延の場合はあちこちに電話をか
けられるという暴挙に悩まされた。お泊りなんか、とてもとてもできやしなかった。これはいつまでも根に持っ
ている。
私がどこかへ出かけることを大変嫌がって「早く帰ってきなさい」と言われ続けはしたが「楽しんできなさい」
と言われたことは、こどものときから今まで、ただの一度もなく、これは、とんでもなくいやな話だ。
だからトーキョーの学校を受験するとか、トーキョーで働くとか、旅行だとかという考え自体が育たなかったの
かも知れない。
母の気まぐれで、高齢者の施設に入りたいと言い出し、引っ越しをした、その翌日に初めて私は独りで沖縄に旅
行した。このときが初めての飛行機体験だった。
そして、いよいよ老齢化のため一緒に住んで欲しいと言われたのが去年だ。
昨秋といえば、覚えたてのドライブに夢中になっていた頃なので、運転中はもちろん携帯には出ないが、少し戻
りが遅くなった日、どこにいるんだと留守電に入っていたときは、もう心底げんなりした。
一緒に住むようになったのが9月だから丸一年経とうとしているが、私と暮らしはじめてから、母は痩せたと言
う。
ははははは、そーか。
先の投薬を受けに病院に通うようにもなった。
私の働かない頭を一生懸命駆使すると、私自身は過干渉を受けたからといって駄目になったわけじゃなく、ごく
真っ当で平凡な女だが、母を駄目にしているのは、どうやら私だ。
私は、自分の冷淡さをもっていよいよタフであり、この人を置いてでも、自分は飛び歩こうとしている。
なぜなら、私はあと40年も生きないからだ。仕事人生はあと10年程度だ。女としては、灰になってもだが。
こういう話は増田っぽくて、書いてる方は結構楽しいけど、書かれている方はヤだろうな、と思う。どんな事柄
を書くと閲覧数字が持ち上がるか、サイトごとに性格があって面白いけど、自分はサイトに合わせて物を言うわ
けじゃないので、どこにいてもいいんだけど。