角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

「パパ」

 

8月は、仕事で使う以外は一度も乗らなかったので、今日は久々、数回目のウトナイ湖へ。

初心者マークを前と後ろに2枚ずつ貼って、前の1枚はいつの間にかなくなってしまったが、後ろの2枚は、並列させずに嫌な感じで段違いに貼っていたので、もう誰が見ても、デリカシーのかけらもなく何から何まで下手そうな車ではあった。乗れるようになってから1年経ったのでそれを剥して乗った。

ごくたまに同乗者がいるけれど、本当は人を乗せるのは好きではない。音楽も聞かなければラジオもつけず、愛想なし、そのまんまの乗り方だ。

ウトナイ湖はR36をひた走り、千歳の空港を越えて苫小牧市に向かう途上にあるが、日曜日とは違い、トラックが多かった。苫小牧の埠頭に向かうらしい。

最初に行ったときはまだ風の冷たい頃で、曇天の湖はなんだか陰惨な感じを醸していた。水際に白鳥がいたが、白鳥はかなり猛々しい性質を持っているので目が合わないようにする。と、灰色の波打ち際付近に緋色のこれまたずいぶん大きな魚、たぶん鯉だと思うけど、が出現し、驚く。魚の影を見るときはいつも驚く。手の届きそうな浅瀬にいて、魚の世界と私の世界はまるで違う。こんなに違う世界がそんなに傍にあるという驚愕だ。

何かの栄養素が不足しているのかもしれないが、私は大体いつも驚いている。

スタートが遅かったので、温泉にも寄らなかった。R36の途中で左折し、羊が丘通に入ってみた。走りやすいという噂の通り、ほとんどの車が80、90で走っている。R36も千歳を過ぎるとそんな感じだったけど。

無闇にアクセルを踏むのは馬鹿野郎だという記事を読んで、その通りだと思っている。今日の安全も、実は自分のスキルではなくて車性能に助けられているだけなのだろうし、医者の妻が医者ではないように、車はヒトではない。運転者は高級車ではない。車の持つ性能や品格は運転者のものではないのだ。
と、寄せて上げる自分が言ってみる。


走っていていつも思うことだけれど、前の車の運転者の鼻が見えるのはなぜだ。
女性はなぜ信号待ちの度に助手席の荷物をチェックし、髪の毛をさわり、青信号に変わるタイミングを外すのだ。なぜ年少男女は後部座席で飛び跳ねるのだ。お宅のお子様はトビネズミか何かなのか。

お車でお出かけファミリーという構図は、私が厭うイメージそのものだ。「パパ、どこかへ連れてって。」なのだ。
かくして至る所、和やかな団らん凶器が満ち満ちていく。自分は愛想なし凶器として用もないのに出かけてしまう。

敵を増やすような文だけれど、そもそも味方なんてあったのか、と考えるとそれはどうでもいいんだし、家族や、婚外カップルの団らんをねたむものでもなければ、車の悪口でもないが、交換世界に生きる我々は、何と何を交換したのかを時には思いだす必要だってあるし、モノや現象には二面性があるから「パパ、どこかへ」の本質をたまに考えたって、考え損ということにもならないと思うんだ。しかし一体「パパ」って何だろう。