角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

本日より春。

 

スニーカーで歩けるのは嬉しい。ついうかれて私は春のファッション雑誌を読もうと思った。
現実を踏まえて、シニアではなく高齢者・ファッション誌で検索すると何誌かヒットしたが、その全てに豪華特別付録がついているのでがっかりしたから買わない。
 
小学生のときに心から欲しいと願ったのが本の付録だった。
「リボン」とか「なかよし」に憧れた。お正月号ともなればマリトッツォのごとく付録がはみ出さんばかりに差し込まれ、お年玉で買おうとドキドキ待ったものだった。
私は小学生ではないのだからもう付録は要らない。

もう少し高い年齢層をターゲットにした雑誌がないものかと思う。けれど歌舞伎を見に行くときのドレスなんてのは全く無縁であるし、健康情報ばかりなのは食傷気味だし、ひんぱんにお取り寄せもしなければ、本物の宝石をだなんて考えたこともない。
ごくフツーの、ファッション誌を読みたい。

雪どけ間近の頃から私は春のスカートを探していて、それはもうものすごくネット上を探し回ったのだけれど、欲しいものがなかった。それは色だったり素材だったりデザインだったり価格だったり雰囲気だったり様々な要素が妥協できる範囲で見つけられなかったということだ。なのでスカートは買わないことにした。

シーズンごとにスカートを探している。ずっと買えない。
かくなる上は自分で縫うことを覚えたほうが良いのではないかと考えたこともたびたびある。
けれど、私は超絶不器用な人間だ。ミシンの針を折って母に叱られたこともある。

料理だってそうだ。作るのは好きだけれど包丁が下手なのだ。見てくれも気にしないわけではないけれど頑張っても美しく作ることができない。盛りつけのセンスもない。ひとりの食事には何らの問題もないとはいえ。
しかし、不幸というのは人の作業や盛り付けを見て、良し悪しを判断できることだ。

力強かったり、洗練されていたり、気持ちをわしづかみにするような線がある。
線を描くこと自体は鉛筆でもあればすぐにできるけれど、それでも絶対に自分が美しい線をひくことができないとき、そして線の美しさがわかるとき、それが悲しみの原点ではないのか。
そして自分の鉛筆をこそこそと隠し二度と使ったりしない。
何も分からなければ知らなければ苦しむことなどないのだった。

という大げさな話はともかく、そんなわけでユニクロのチノパンをポチッとしてから図書館にでかけた。
途中で、あっと気が付いた。色を間違えた。
図書館から戻ると、もうキャンセルは間に合わなかった。
不器用なだけではないのだろうね。

春のファッションを夢見ていても大抵はユニクロかmujiに無難に落ち着いてしまうのをなんとかしようと鋭意検討中。今回は新しい所を見つけたのでそれも注文してみた。

私にだって春はもっと来ていいと思う。