角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

かみもしもも。

 

久しぶりに見たビデオはジェイソン・ステイサムがヒーローだった。私は髪の毛が嫌いなのかもしれない。
今日はブルース・ウィリスだった。見終わってからどちらも数年前に見たと気付いたけれど、忘れていたので無問題だ。

なぜ髪の毛はそこここにいたるところに落ちているのだろう。新陳代謝の一環として生理的な現象なのは理解しているけれど、掃除をしてもしてもしても髪の毛がなくならないのは偏に私が生きているからなのだ。生きているから抜けるんだ♪
そう考えると地域の、まちの、国の、あらゆるところに日々落ちて埃にまみれる髪の毛の物理的な量というのは想像するだにおそろしい。
 
あっそういえば数年前、大切な契約にまつわるシーンで四名が金融機関のテーブルについて先方が契約書を広げたときに、そのときにあろうことか書類上に1本あって、いろいろ慮ってすっかり困ってしまったけれど契約は無事に済んだ。大人の力というのは凄い。まあ当たり前だけれど全員が無視した。といったって書類の上なのでして。そういうときのスマートな対応はどうすればよかっただろうか。少なくとも私が手を下すものではなかったと思うけれど。
お正月にふさわしい話でもなかったか。

ではおせち。
 
小町におせち料理が嫌いだというトピックがあって、嫌いなら嫌いで別にいいだろうになぜ、と私は考えるけれど、コメントの中で、料理というのは非日常、ハレの演出だから大切であり「記憶の反芻」であると書いている人がいて仰る通りだと思った。美しい言葉を書く人がいるんだなあ。

自分自身も一人だからどうでもいいようなものの、それでもそれらしいお正月の食べ物は作る。そして父や母がどうだったかとか、あのときの煮物は大失敗だったとか思い出したりする。私は行事食を必ず作るわけではないけれど、大切だと思う。それは季節ごとの旬の食べ物にも共通する四季のめりはりや生活の一区切りとして知恵に溢れたものでもあると考える。ささやかで暮らしにそう文化だと思う。過去から繰り出された掌の上で生きているのに自分の拠って立つところをないがしろにするのは残念だ。それを軽薄というのではないだろうか。
いや、お雑煮が嫌いなら嫌いで一向に構わないんだけど。