角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

5月のぐず。

 

振り返ると昨年末以来、ありとあらゆるといえば大げさだけれど、とにかく次から次とちょっとした不調にみまわれてしまい自分が働いているのかいないのか分からない状況になった。
どうやら仕事をすると体調が悪くなっている。に違いない。ように思える。
きれいに辞めるために「そうだ診断書をもらおう」と思いついたけれど、実際のところは診断書をいただくほどの深刻な状態ではなく、軽微なものばかりなので寄せ集めたところで何の説得力をもたないことが分かった。
 
毎日、さてどうしようと考える。疲労の蓄積がさまざまに現象するのだと思うから、肉体的に限界なのだと理解している。けれど、少し休めば就労可能な程度に回復してしまう。さてどうしよう。
 
自分の人生は自分のものだとか、そういうのは知ってる。分かってる。
私はせっせと自分で自分の機嫌をとってきたので、今回もそうしようと思うのだけれど、気持ちと肉体の分離というか、私は働くことが好きだ。というよりも働く自分でなければいけないと考えてきた。
逆に言うと、健康なのに働かない人が嫌いだ。もう少し強く言うと、大嫌いだ。さらに言うと本当に嫌いだ。けれど「嫌い」の本質は違う。
 
世間には働かなくてもいい人や、むしろ働かずにいてくれと言われる類の人がいる。そういう人たちへの強いコンプレックスが私にはある。
 
自分の年代ならば殆どがいわゆる専業主婦になったはずだけれど、私はできなかった。

どう心根を入れ替えようと、相手の親族御一同とそつなくお付き合いしたり、相手のご友人一同とコミュニケーションをとったり、ご近所・町内会といった地域社会との円満で円滑なお付き合いをするとか、凡そ普通のひとがなんなくクリアできそうなことが自分にはできそうになくて驚嘆する。

もちろんすべてのひとが驚嘆に値するわけではないだろうけれどそれにしても。
そのうえ、料理においても、私は全く自信がない。
比較的最近に調理師資格を取得したり、現役以降は食に関わる仕事に就いたりしながらも、おまけに私は作って食べることを大きな趣味としていながらも、主婦として家族の食事を日々作ってきた実績がないために、自信も確信も持てないでいる。

夫がいてこどもが小さかった頃は死にもの狂いで働いていた頃でもあるし、こどもの父親は食事に全く興味を持たずかつ食べられるものが極めて少ない人だった。だからその頃はほぼ毎日が店屋物だった。普通の主婦の人が毎日どの程度どう清掃するのかということも私は知らない。

というような経緯から家事全般にわたる主婦としての堂々たる自信を私は持ったことがなく、それが大きなコンプレックスとなっている。きっと何ら実体のない思い込みなのだろうとは考えるけれど、ひとまずは主婦の人の前で私は怯んでしまう。

だから自分にできることは仕事だけだと考えていたし、もうずうっと働いてきたので仕事をしなくなることは、私にとって主婦に戻ることではなくて、なにものでもなくなることなのだ。
 
というようなことを考えて、気持ちは仕事をしたいが、身体は悲鳴をあげつつある、という状態でぐずぐずしている。
同僚に嫌な人間がいたりするとすっぱり決意できるのだけれど、そういうことがないために余計にぐずぐずする。経済的なシミュレーションもチェックも何度もしたけれど、分からない。
この先どんなことがあるか分からないのだから、絶対に不足するというわけではなくても、絶対に大丈夫とも言えない。そんなわけでここ数日は散歩の気持ちにもなれず、何をするというわけでもなくご飯の支度だけをして暮らした。