角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

ねたばれ。

 

給付金をありがたく使わせていただいた。まだ振り込まれてないけど。
 
土を買った。しばらくぶりに鉢植えの土を交換。一番大きなパキラは室内樹木のようになってしまい、これ以上成長すると倒れやすくなるし、私が自力で持てなくなるので、それ以外を一回りずつ大きな鉢に植え替えた。面倒なのでこのまま朽ち果てるのを待とうかとちらっと頭をかすめたこともあったけれど、悪しき誘惑に私は打ち勝った。
 
土のにおいはどうしてあんなに気持ちが安らぐのだろう。私は野菜だったのかもしれない。
 
あ、それからchromebookも買った。私はamznで買物をするときに、たいていはまず欲しい物リストに入れておいて、しばらく温める。そのうち欲しくなくなれば削除し、それでもやっぱり欲しいと思えばそこではじめてカートに入れる。そして数日温める。というような手間暇をかけて無駄遣いを防ごうとしているけれど、買ってからこれは不要だったと思うものも結構ある。

chromebookはリストに入れた時点で在庫が2桁だった。とても売れているという記事を見て半信半疑でいたら在庫数が僅少になったので購入した次第。

さて、先ほど読んだ記事が斎藤環氏という精神科のお医者さんのnoteで「人は人と出会うべきなのか」とタイトルされていて、臨場性の「暴力」について書かれている。

~どれほど価値のある臨場性であっても、そこに「暴力の痛み」を感ずる人々が一定数いる~というのにはヘドバン。自分はまさにそういうことを感じる一定数のひとりなのだと思う。
蛇足ながら、今更ながら、あるひとがコミュニケーションを欲するときに自分は関係性を欲していたというようなこともある。非対称性については自分のような浅はかなものでもそれなりに考えたことがあるように思う。
 

自分が文字を読む時は紙ベースであれ、モニター上であれ、一言一句細大漏らさず読むということがなく、大変良くない癖なのだけれど、とびとびに読んでしまう。教科書もそうだったし、長いメールなんかもそうなので、そういう雑なインプットをしているといつまでも理解能力が低いままだし、文学作品なんかは言葉そのものを読まないと良さが分からないというのは分かるけれど、総じて自分はものごとのあらすじしか求めていなかったのではないかと思う。