角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

ガッツ現象は散見されるらしい。

 
「あるひの朝食」というテキストを見て、3秒くらいは考えたものだ。一体あひるは何を食べるのだろうかと。

 

さて、もう一月も終盤だ。
 
ここだけにしか書かないことだけれど、昨年末に、簡単な食品類を息子家族への差し入れにするつもりで購入した。で、そっくりそのまま拙宅にある件。
どうしたものかなあ。私が消費してしまおうかとも思う。でも美味しかったら、きっと悔しいと思う。彼らに食べさせたかったと思うと思う。

ガッツ石松似の孫を見たのは、まだ産院にいるときで、新生児のときは短いから、どうぞいつでも見に来てくださいと息子の妻ちゃんが言ってくれて、きっとお正月の休みには彼らから声がかかるのではないかと期待してそれでお土産ほどには堅苦しくない差し入れを密かに用意していた次第。

お正月を過ぎて一度、動画を送ってきたけれど、やはり生活サイクルがすっかり狂っているらしく、息子からは落ち着いたら会おうというようなテキストが届いただけで、いやそれで十分なのだし、レトルトカレーはまだまだ消費期限ではないのだし、だからこのまま保管して置いてもいいようなものなのだけれど、どうしたものかなあ。私が消費してしまおうかとも思う。以下繰り返し。
 
そういうことは言わなければ絶対に伝わらないけれど、言うつもりもないので、案外差し入れを隠し持ったまま黙している姑だっているのではないかと考えた。
 
息子を呼びつけたりは、私はしない。それほど強い親ではない。また、遊びに行きたいとは言わないのが私だ。なぜならひとの家に遊びに行く習慣がない。息子が一人暮らしの時も引越しの時くらいしか行ったことがない。
それにもっと大胆なことを言うと、孫だから可愛いというよりも、赤ちゃんだから可愛いという方が近いような気がする。
さらに言うと、私はきっと孫よりも息子が可愛いんだろうと思う。でも会ったところでそんなに話が弾みまくると言うわけでもないので、なんだかぼんやりとはっきりしない気持ちになっている。このはっきりしない気持ちのよってきたるところが何なのかというと、会えないことそのものではない。
 
息子がまだ赤ん坊だったころは、母がしばしばやってきて心強かったので、そういうふうに持ち回っているのだから別に無問題だけれど、つまり何を言いたいかというと、なんだか息子が妻ちゃんの実家に近くなったようで、それがかなしい。
 
でもそういうこともここにしか書かない。誰にも言わない。それで円満に行くならそれが正解だと思う。
 
ああ、ガッツは私にはなつかないんだろうなぁ。まあいいや。