角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

甘柿。

 

芹沢けいすけの文様図譜というのを借りてきて眺めていた。紅型に傾倒していたらしいので、紅型好きの自分としては、そのせいもあって惹かれるのだろうと考えた。氏の美術館が静岡市の登呂公園の中にあるようなので、来春はこのあたりを計画しようかというのが一案。
  
仕事は楽しい。かどうか分からないけれど、独り作業は楽しい。私は昨年よりも一昨年よりもたくさん働いていて、逆行する感じが面白い。立ち仕事なので水分補給をまめにしないと、就寝時に足がつったりする。手を使いすぎると手だってつるということを知った。
先日は事情があって、気がついたら9時間連続で働いてしまって、翌日はどうなることかと心配したけれど、どうということもなかった。会社的には6時間働いたら休憩しなくてはならないのだけれど、どうにも休める時間を捻出できずに頑張ってしまった。アミノバイタルを持参していたけれど、もちろん食事はとれない。足腰はともかく、肩が弱いので、なんだかはずれてしまいそうに痛んだので、湿布を貼って寝た。
従来は時間帯を優先して、早い時間を希望して探していたけれど、今は独り作業であることを優先して希望している。いい加減学習したのだ。自分の場合は人と接触する部分から疲弊していくことを。 
 
そんな時に「ちひろさん」の9巻を読んだ。続きが出るかどうかは知らないけれど、第一部のおしまいだそうだ。投影してるのかもしれないけど、去っていく気持ちがとても良く分かる気がした。去り方というなら、メアリーポピンズの去り方が私は好きだけれど。
 
 
家に柿があって、あれ以来、どれ以来かというと8年前に鳥取に旅行した時に購入して以来、毎年花御所柿をネットで購入している。毎年甘い。晩生柿であるから、その前におけさ柿とか庄内柿をスーパーで購入する。私は富有柿も好きだけれど、12月の初めに花御所柿が届くとほぼ年内の分はあるので、富有柿をスーパーで見かけても買えないのが残念だ。
で、毎日の甘柿が当然のように思えてくるころに、唐突に柿は終了する。
 
箱いっぱいの柿がなくなったからといって私の日常は変わらないけれど、喪失感は胸いっぱいに広がるものだ。別に自棄を起こしたりはしないものの。昨日も在って、一昨日も在りながら、今日ただいまの欠落は、昨日と今日があからさまに連続していないことを思い知らせる。私が柿を失ったのではなく、柿が私を断絶したのではないか、喪失を決めるのは私ではないと思うのだ。
 
柿は、熟しすぎてはいけないので、暗くて寒いところの箱の中にある。手探りでほんの少し柔らかい感触のものを一つ箱から取り出す。数を数えることは指折り寂しさを待つことだ。私は柿の数を数えない。
 
と、まあ柿の話でこんなにひっぱることもないんだけど、柿にとっても誰にとっても私は「一番」でなくなっていく。かつて息子にとって「絶対の一番」だった私が、いない。