角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

常にいる。

 

勢古浩爾の「まれに見るバカ」の第四章現代無名バカ列伝の中に、―「がんばれ」といわれたくない―という項目がある。言われたくないひとたちに対して、「自分」という存在のだらしなさを舐めてはいけないと書いていて、明快だ。


さらに、実際に新聞紙上に掲載された投書例がある。ざっくり書くと、末期ガンの母親の見舞い客が口々にがんばってねと口にし、言われた本人は何をどうがんばるのか、これ以上がんばれないと訴えるそうだ。それで投稿者は、「がんばれ」が、あまりに安易に使われすぎているし、相手を思いやる想像力が失われているのだろうかと投書した次第だ。その反響もいくつか紹介されている。
 
これに対して著者は、こういう書き方はよくないし、こういうことを投書するのもまったくよくない。と書く。なぜなら「がんばれ」と言う言葉は「安易」に使うものなのだ。しかしその時の気持ちまでが「安易」であるとは言えず、「相手を思いやる想像力が失われているのだろうか」というのは、思い上がりだ、と言い切っている。
 
私なら、どんな言葉を選べばよいか分からず、やはり「がんばってください」と言うと思う。さまざまないいようのない気持ちをこめて、それでも、というよりは、それだから平易でありふれている言葉を使うと思う。
 
この投書のようなデリケートで深刻な局面とは違うけれど、日常的に、そんな言葉遣いは、と口に出されたり、出されなかったりすることがあるけれど、そういうの、言ったもん勝ちになるので嫌だ。こんなときのこんな気分をこのような言葉遣いで表現しました、などとこちらはいちいち説明をしたりしないものを、自分の勝手な思い込みや常識で、お前は無礼ではないか、のように反応されるのは面倒な話だ。でもこういうのは基本的な信頼関係ができていない所以だと思うし、信頼されていない私に非があるので、これもまあ泣き寝入るのは自分の方だったりする。
 
 
勢古浩爾の本は引用が多いから、1冊読むと新たに読みたい本が増えるので、楽しみが多い。続けざまに「思想なんかいらない生活」を読んだ。ところどころ、いいがかりのような文章もあるけれど、興味深く読んだ。
私は中島義道という人の本を昔1冊だけ読んで、大変面白かったので、久しぶりにまた何冊か読んでみようと考えて「人生に生きる価値はない」というのを読んでしまい、まあ面倒くさいと感じたし、勢古浩爾の「思想なんか~」を読んだら、なんだか中島義道の次の本はもういいような気がしてきた。『「思いやり」という暴力 』は、どこかで見つけたら読んでみたいけど。
  
困ったな。
 
私は文章が下手なのではなくて、頭が下手なのだ。考えることが下手なんだと思う。だからなんとなく言えそうで決して言えないことがある。