角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

夏の途中。

 

時はきたれり。Now is the time 。そういえば昔、いたせりつくれりというのを考えたことがあった。ごめんなさい。
   
で、何がきたのかというと、待ち望んでいた梅干しの時。天気予報では今日から3日間は降水確率10%で最高気温が30度という絶好の日和だったのだが、予報が変わってしまい、実はそんなに今日の気温は上がらなかった。明日も30度にはならないみたい。明後日は曇りみたい。全然違ってるけどそれでもなんとか干してみた。
 
この前読んだ佐野洋子の本の中で、農業の友人の話から、農業というのは、たとえばトマト農家がトマトを50年作り続けたところで、それはたった50回しか経験ができないことなのだというようなことを書いていて、ああそうだったのかと、とてもびっくりした。びっくりした、以上のことを書けないのが私のクオリティなので申し訳ないけど。まあ日記だし。
 
さて昨日と今日にかけて勢古浩爾の「白洲次郎的」を読んだ。これは面白かった。amazonでは、この著者の作品としてはかなり評価が低いけれど。私は白洲次郎という人が、世間で一頃ブームになったのは知っていて1冊くらいは本を読んだかもしれなくて、受けるイメージは清々しそうな人だなと思ったけど、歯切れが悪いけど、身近にいたとしたらどちらかといえば苦手だと思う。それが払拭された、ということはなく、やっぱり苦手だろうなと思う。素敵といわれても、まあそうかなと思うだけで惚れ込んだりはしないものだ。
この本の著者はどうやら白洲正子に対してはあまり共感していないようで、バカ娘よばわりしていて笑った。
私も全く共感していないので、どうして世間がそんなに持ち上げるのか分からない。いや本当は分かってる。でも、ほんものの生活とかは意味が分からない。
 
人間にはほんものもにせものもない、と私は強く考える。
 
勢古浩爾が、本の後ろのほうで、~人間はなにがしかの文化のなかで育つほかはない。無意味を意味として身につけるのである。人間はその意味を「的」として生きる。そのなかに人間のすべてがある。
と書いていたので、こちらも、ああそうかと思って、分かったような気になった。今日も途中で。