角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

ハブ

 

今までの旅行の後がどんなだったかは全く忘れてしまったけれど、今回は「祭りのあと」状態で、どんよりが続いた。何でもしたい日と何もしたくない日が一定の間隔で交代するのは毎度のことだけれど、だれだってそれはそうなんじゃないかと思うけれど。
 
本だけは読みたい気持ちになるので、もしかしたら私は読書好きなのかもしれない。借りたい本が貸出可となっていれば、悪天候をものともせずに出かけられる。これは他のお楽しみではできないことだ。デートだってもしかしたら悪天候のときはキャンセルしたいかもしれない。
 
というわけで景気のいい本を読んだ。高齢社の創業者が書いた本で、ずいぶん仕事好きなんだなあと思ったし、働く場は生きがいだと言われるとそうかなと考えたりして、もすこし仕事をしようか、なんて思いも湧いた。
起業のマインドとか働き方のルールとかは、いいなと思って読み進めたら、設立時メンバーの平均年齢が63歳というのは結構だけれど、事務担当の女性1名を除き、とあったので、なあんだと思わず笑ってしまった。愛玩したい意欲満々だと思ったので。これはおかしいだろう。私はとてもおかしいと考えている。
 
もう一方で、しばしば開いてみる定年後のリアルシリーズがあって、何もしたくないのなら何もしなくていいと言われて、頷いた。この本の中で、笑いさんざめく普遍的で人間的な集団の在り方が苦手だとあった。まったく楽しくないとも。集団的関係をうまくさばけない、一対一の関係しかとれないと書いてあって、すなわちこれは私自身のことでもあるのだ。
 
著者の勢古浩爾という人について私は全く知らなくて、リアルシリーズが代表作なのかと思っていたけれど、実はたくさんの著書があることに気がついて、何冊か借りたり買ったりした。幸福論の中で、しあわせなんてどうでもいいと言い切っていたので、ああそうかと合点した。たしかにどうでもいい。
自分だって、しあわせですと言ったりするのはただ単に欲を満たしただけだったりもするし。
 
あちこちの本を少しずつ読んだりするとますます自分がどうしたいのか分からなくなった。
この期に及んで分からないも何もないのだけれど、そんな気持ちがどこからくるのかというと、多分私は自分の世界を失うのではないかと恐れているせいだ。
 
私が世界を失いそうだとおそれるとき、世界は私をみていない。世界を喪失したことを私は知らずに生きていくのだろうか。