角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

蓋の裏。

 

「あなたに食べてもらえて本望」とヨーグルトの蓋の裏に印刷してあった。さいですか。
 
さて、暗黒日記みたいなもんだけど、以来89日間で87本の映画を見た。というのは正確ではなくて、実映画館で見たのが2本あるから89日間で89本見た計算になる。今日から少し休む。少なくとも日課にはしないと決めた。
 
ここのところはずっと007シリーズを見ていて気が付いたのだけれど、一作目は途中でつらくなって見るのをやめた。やはりこういう種類の映画だと、年代的に陳腐化が起きているのであまり楽しめなかった。面白くなってきたのは8作目からで、少しして中だるみがあって、後半また盛り上がった。毎日見ていると、とてもパターン化しているのが如実で、それを承知で見る楽しさもあった。

本で読んだことはないけれど、映画を見る限りマネーペニーの気持ちがかなしい。比較対照するのは間違いなのかもしれないけど、本しか読んだことのないペリーメイスンでは秘書の人には救いがあるけれどマネーペニーにはない。後半の脚本では、彼女の設定が変わっているので、無問題だけれど。
 
マネーペニーを知って、すぐさまペリーメイスンの秘書を思い出したのは可笑しかった。そんなところしか私は覚えちゃいない。当時といっても一体いつ頃なのかを私は覚えていないけれど、ハヤカワミステリ文庫とか創元推理文庫を読み漁っていた時期がある。あとSFと。
自分の場合は、ストーリーを追うだけなので、ろくな読み手ではないし、文学作品はあまり読まなかったので、文学少女だったわけでもない。
 
本は不思議だとつくづく思う。
 
装丁や紙の質や活字フォントや版づらや挿画を含めた書籍愛というのは確かにあるだろうけど、大方は専ら言葉の一切合財を読みたがるのではないだろうか。私はそうだ。だからたとえ古本だろうと汚れが多少あろうと紙魚が棲んでいようと全く私は気にならなくて、面白いから読むだけなのだ。無理をして嫌々ながら読むことはしない。

それが絵画鑑賞だと、そんなわけにはいかない。全部的絵画っていうか、絵画的全部を見るのだから傷や汚れや劣化を無視することもできないだろう。音楽だって、メロディラインさえあればノイズがあってもいいというものでもなく、途中で途切れてもまあいいや、というものでもなく、人によっては演奏家や指揮者の違いも選択肢に入ってくる。
芸術と括られる他の、例えば落語でも文楽でもお能でも浄瑠璃でもいいけど、そういうのはきっと全部が見たり聞いたりするところのものだ。まどろっこしい言い方だけれど、見ないわけにも聞かないわけにもいかない芸術だ。
本だけが見ることもできず聞くこともできないというと誤解が生まれそうだけど、それにいつのまにか文学と芸術をいっしょくたにしているし。
本は、表現したいことを可視化して媒介する活字の形をしていても、本は活字とはイコールではないので、私たちが読むのは、一体なんだろう。と考えると読書は面白い。本の何を私たちは面白がったり、本を通じて知りたいことはなんだろうと思う。
 
小学生みたいな感想を長々書くことでもないけれど。
 
そんな感じで映画を見ているだけではないのだった。少し休むと書いたけれど、何かを始めようと決めることと、何かをやめようと決めることと、どっちがかなしいだろう。
いや、かなしくはないんだろう。どっちがエネルギーをより使うことなのかと訝っている。
いやいや、私ならかなしい、私はとてもかなしい。ばかみたいにかなしい。

私の蓋の裏は。