角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

弾く人も聴く人も。

  

ピアニストの中村紘子さんが亡くなった。
彼女の弾く別れの曲をyoutubeで聴いた。
 
昔、私がとても若かったとき、庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」を読んだ。その中でどうしても忘れられない言葉があって、折に触れて思い出すし、それはもはや読んだ言葉というよりも持論に近いものになっているのだけれど、本の中で言ったのが主人公だったか誰だったのかは覚えていない。
自分は天才的だからといって社会性のない身なりや振る舞いをすることをよしとするのはおかしいよね、そういうのが許されるのは本物の天才、例えばベートーベンレベルだよね、というような内容だった。ずいぶん乱暴に端折ってしまい申し訳ないけれど。
 
そして同じ本の中で主人公が、中村紘子さんのようなきれいなピアニスト云々と言及していたのも覚えている。当時はyoutubeがなかったので、もちろんinternetそのものもなかったし、windowsもなかったし、パソコンという言葉すら知らなかったから、私の中でそれはそれきりになった。
 
あれからどのくらい経ったのか、さまざまな「あれ」を、今回の訃報で考えた。
 
かつて私が酷い文章を力任せに書きなぐっていたサイトが閉じられることを本当に偶然に知った。
 
私はそこに人が3人いれば4人を嫌ってしまうような人間だから、文章しか知らないのに嫌いな人間ができてしまったのは当然のことだ。それなのに、やっぱり文章しか知らないのに好きな人ができたのは随分不思議だ。
 
でも、シャーレの中の小さいコロニーも、恐竜も、有機物も無機物も、人が関わる関わらないに関わらず一切は終わるんだろう。ダイヤモンドも終わる。
 
別れの曲を弾くひとも聴くひとも。
   
えーと、そしてそこから、つまりそのサイトを知ってから、今に至る10年前後を私は無意味に過ごした。昨日読んでた村上春樹の言葉、いや、意味を借りると、誰と戦っているのかわかんないことを不毛というらしいので、私の生きる意味はあなたであるということや、不毛であることや、無意味に生きたことは全部同じだと面倒がって私は思うのだ。
 
面倒がらずに書けたとしても、やっぱり同じなのかもしれないけど。
ふと思い出してスタンゲッツを聴きながら書いている。
 
ここまで書いてから5時間くらいは中断してしまう。シャワーを使ったり、映画もやっぱり見た。
中断すると、ますます面倒になって日記をアップする気力が大いに削がれてしまい、そんなふうにしてアップしなかった日記もたくさんあるけれど、私にだって、あのサイトは宝物であり続けた日々がある。

けれど、そんな風に思いながらも私の居場所ではない気持ちがずっとしていたし、もちろん、社交的な振る舞いを私はできないから、仲よくもなれなかった。かなり以前に退会したから、私の戻る場所でもないわけだ。 
 
ただ、もしもあなたが今でも忌々しい気持ちを持っているなら、そんなに嫌なことばかりでもなかったでしょうと言いたいし、もし寂しがっているなら、私は慰めてあげたいと思う。
 
あなたが私の時間であり、私の意味であるとしても。こんなにラブレターみたいな文言を書いても。
 
ああやっぱり5時間も空けると書きたいことが書けなくなった。