角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

別な言葉の検索で思いがけない記事にヒットした。

 
懐かしい名前だ。時々思い出すことがあっても、おそらくもう事務所には出ておられないだろうと考えたし、それ以外の連絡先を私は知らない。
 
K社長がこの1月に亡くなられていた。地域の経済サイトには、蓋棺録として4名の方の記事やお話が載っていた。うち2人は面識のある人だった。
 
私は自力で気ままな春に漕ぎ着けた気がしてなんだか浮かれていたかもしれない。
 
K社長が、自分の創った組織を追われ、あの広告代理店の作った新会社に招請されたときからのご縁なので15、6年のお付き合いをいただいた。むろん私は内部に机を置いていたとはいえ、当時からずっとただの仕入先業者なのだし、K社長が元の組織にいたのならば言葉も交わせないほど偉い人だったと思う。
 
その頃は代理店がたしか6階、7階、8階の一部にあり、私は8階の一部の一角に居たし、K社長の事務所も8階にあったせいで、仕事をいただくようになった。とても信用されるようになった。例えば仕事上で、私が1億円でいい、というとK社長は急ぎの仕事だったから2億円払うと言い、私がそれを強く拒んだりする押し問答のようなことが何度かあり、そういう偏屈といえば偏屈な私の性格を良いように解釈してくれたのだろう。単位は違うけど。
 
代理店が潰れて、関連の新会社が債務整理を残して転居し、それからその次に転居してやっと債務整理は終了したと聞いた。
きわめて個性的な人で、畏れる人も多かったけれど、私にとっては、ちっとも人の話をまともに聞いてくれないような、実にあっけらかんとした人だった。函館ご出身で、函館には名門の高校がある。その高校の開闢以来の秀才であるというのは未だに語り継がれるところだ。
 
なんとなく周りから聞いて知ってはいたけれど、本人が自らは絶対に口にしないとされていた、ご子息のことを一度だけ聞かされた。それ以上の詮索をしないので私は猫のような聞き手ではある。
  
私がiさんらと一緒に立ち上げ損なった事業について、私が持っているものを全額投入しようかと考えていたときに、このときばかりは真剣に、絶対にお金をそれ以上使うなと言った。細腕で稼いだものを易々と渡すなと言ってくれたのだ。その忠告には従った。
店を出そうかというときにも、最初から最後まで強く反対された。その忠告には従えなかった。
店が開いたら開いたで、会合で貸し切っていただき、定例会をここで、ということにしてくれた。2回目の会合の時に既に店は消失していた。
 
本当に多大にお世話になっておきながら、私が無念に思うのは、昔、私がまだ若くきらきらしていた時におそらく、いくばくかの仕事的期待を私にかけてくれたはずなのだけれど、ことごとく私は誰の期待にも応えることができないままにこんな年齢になったことだ。
 
なぜ、ありがとうを伝えられないままに別れがくるんだろう。
 
私がきちんとしてないからなんだ。面倒がって連絡をとらなかったり、挨拶にも行かなかったりした。自分のせいでこんな悲しい目に合う。
 
私はまだそんなに深い年齢ではないけれど、これから先はお別れの話ばかりになるのかもしれない。そうやって自分を知る人を失うから、私もまた失われていく。

100歳を超えてなお筆を持つような人は、私たちのあずかり知らない凄まじい孤独の中にいるのかもしれないと思った。
 
 
 
比べることはできないけれど、もうひとつ、私の大好きな温浴施設が閉店した。市内なので車のあった頃は何度も行ったし、車がなくなってからも何度か行った。一人でゆっくりできる大好きな場所だったのだが。
 
K社長のことと、温浴施設のことと、並列して息子にメールすると、まもなく、某コミックの全巻をダウンロードせよとリンクが届く。この子は。
  
小学校3年生くらいのときから、この子は、私のなだめ方のようなものを実に良く理解している。
 
私はじきにK社長のことを脳天気に忘れてしまうだろう。私のあとはあなたが私を忘れるだろう。いずれにせよ蓋を閉じたときに我々のひととなりは固定して終わるのだ。
  
私は、K社長が悲しがらずに逝かれたのだと思いたい。