角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

紅葉。

 

私が休みの水曜日は、K社長も休みなので、お目にかかれるタイミングはないのだけれど、たまたま昨日電話をすると、昨日が休みで、水曜日に出社予定と言われたので、皮膚科に行ってスタバに寄って、それからおもむろに事務所に向かう。
 
ところが、夕刻に予定があって午後深くの出社になりそうとのことで、残念ながらお目にかかることはできなかった。書置きを書いていると何だか泣きそうになった。もう二度と再び遭遇することはないような予感がした。
 
K社長は春すぎから不調が続き、特に最近では週1くらいの出社になっているとのこと。そんな中で、私を慰留し、食事会を提案し、そして先日は会合を開いてくれたのだから、どれだけ自分が後足で砂をかけるような酷いことをしたのかと思う。だからこそ私の酷い今があるのだ。
 
それに酷い上に私はいいかげんだ。何の覚悟も目的もなく、いや目的はあったのだけれど、飲食店に埋没しようというような覚悟は未だできていない。長いモラトリアムの期間中、私はずっとだらだら過ごして、包丁の練習もしなければ、メニューの研究もしなかったし、原価計算もしなかったし、ポーションの研究も、価格のシビアな設定もしなかったし、おまけに知人友人の連絡先はほとんど全てを失ってしまっていた。

ひとりだけ、ご実家の母親が飲食店をしていたひとりだけが、絶対にやめなさいと忠告してくれたけれど、他の人々は好きなようにすれば、という立場だったし、私はといえば、文字通り好きなようにした。だから誰かや何かのせいでこうなったのではなくて、私がこうした。
 
私は、自分なんかは地獄を見ればいいと、時々思うけれど、それはK社長が痛みや辛さを人に漏らすことなく耐えているのは贖罪的な意味があるのではないかと私は考えたし、同じことを誰かも言っていたけど、それに通じるような気がするし、そういうのを私は「嫌だな」と感じていたけれど、それは自分についてもそういう意識があるからなんだと思う。要するに自分には罰が当たらなければいけないと考えてしまう心のもちようだ。
 
人様に迷惑をかけずに済むようなら、即刻何もかも辞めたいけれど、辞めたところで何かがあるわけではないので、元の木阿弥以下になる。
 
どうしたって勝ちの構図や数字が見えないところで、どう努力すればいいか分からない。この期に及んで、自分が料理を作ることしか考えていないのは経営資質がまるでないし、商売人でもない。
 
どうしたらいいかなあ。注ぎ込む金額を意識の中で減額した。

飲食店は、精密なマーケティング云々がどういうものかは知らないけれど、とても危険な賭けだ。そしてなぜか理由が分からないときに、得てして的外れかもしれない改善や改良をしようと足掻く。たとえば「オシボリの巻き方を変える」「店内に一輪挿しをおく」などといったことに真剣にお金をかけるのだ。だから際限なく注ぎ込んで破綻する。危険すぎる。危険を選ぶというのはそういう意味ではないはずだし、やりたいことをやれ、というのもそういう煽りではないはずだ。
 
誰も信頼して相談できる人がいない。管理会社の人のいうことも彼の立場上、そんなにあてになるものではない。だから注ぎ込む行為をやめるという決断をするのは自分自身だし、それができないというのは、元夫のごとく死に至る病を背負ってしまうということだ。
 
大体、何かをはじめて失敗するあたりには、ブログなんかは閉じてしまうけれど、私はそこだけは逃げないでおこうと思う。勿論辛くてカッコ悪くて恥ずかしくて何一つ良いことはないけれど、裏も表も、とかつて私は言った。