角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

デイジーのこと。

 

そんな高邁な精神はないのだけれど、点字・点訳について少し調べた。養成講座というのがあり、今年の講座はすでに始まっているため、覚えたいのなら来年を待てと言われる。それは了解し、少し気になってさらに調べた。
 
視覚に障害を持つ人のうち点字を学ぶ人、点字を読める人というのは、少なくなっているようだ。
点字のほかに、録音図書とよばれるものがあって、こちらの需要が高まっていて、とりわけ、国際標準規格としてDAISYという新しいシステムがあり、この技術により録音図書が大幅に改善されたアクセシビリティを持つようになったという。
 
専門的な話で、自分でもきちんと把握できていないため、うまく説明ができないから少し端折る。そのデイジー図書の製作の仕方は、きわめて大雑把に書くと、OCRが読み取って合成音声が読み上げるものだ。しかしながら図書刊行物の種類や複雑さなどからOCRは完璧に読み取るわけではなく、合成音声が読み上げるにはルール化される必要もある。
  
さて、OCRが読み取ってから合成音声が読み上げる間に校正作業が発生する。印刷物の校正とはもちろんルールを異にする。そのボランティア作業を募集しているサイトにたどりつき、さらに調べると、それは大学の「高齢者クラウド」の研究開発として、いくつか分野を分けたうちの新規ビジネス創出システムとしての実験プロジェクトだということが分かった。日本点字図書館と東京大学それと日本IBMの産学共同の試みだ。
 
関連資料のPDFを眺めると、超高齢化の本質的問題は福祉ではないと書かれており、さらに若者が高齢者を支える従来モデルではなく、高齢者が若者を支えるのが新たな社会モデルであるとも書かれており、得心した。
 
しつこいけれど私は、「女性の登用」ではない、とずっと考えている。そうではないと思うし、その性差切り口を手放すべきだと考えている。
   
ところで、視覚障害者に関わる作業は、その末端というか先端というかわからないけれど、基本、ボランティア作業に委ねられている。点字点訳ももちろんそうだ。読本の相談にのるのもボランティアだ。もちろんこの分野ばかりではないかもしれないけれど、視覚障害者にかかわる話は自分の身の回りレベルではすべてボランティア文脈の中で語られるわけだ。
このプロジェクトはクラウド技術を利用した就労モデルの話であるから、やがてボランティアとは相容れなくなるので、その先に何があるのか興味深い。
 
私は、なんでもかんでもボランティアで補てんするというのは愚劣だとも考えている。有事の際のボランティアとはわけが違うだろう。
そういえばプロボノなんてのもあって、私は、これはちょっとあれだ。以前に登録したクラウドワーキングサイトといい、本当にうまく感じていることを言い表せないけれど、何かあれだ。
  
とりあえず私は当面、暇にしているくらいなら少しでも役に立つことを、と願い、プロジェクトサイトに登録を済ませ、指を動かしているけれど、では、ボランティアが有償になれば、それは清潔感のない行為になるのだろうか。労働は清潔ではない行為なんだろうか。いずれすり減らす肉体をせめて等価交換しようとするのは汚れた行為なんだろうか。 
崇高な行為とはなんに対して言われているのか。どこから人の行為行動は崇高さを線引きされるんだろう。
 
 
というような雑談をしながらコピルアクを飲んだ。引っ越し以来初めての息子宅を訪問してのことだ。現地からのお土産をいただいたのだという。豆自体がバニラのような芳香を持っていた。美味しい珈琲であった。
  
息子は、生まれて初めて喘息に罹ったと言った。いわゆる大人の喘息だ。あっさりと聞き流してから自宅に戻って検索すると大人の喘息は治らないとか、もっと恐ろしいことも書いてあってすっかりこわくなった。
 
長くは書かないけれど、それは私のせいだと考えている。
 
馬鹿な母親でしかない私が、彼のために何ができるんだろう。私は丈夫な子を産んで、丈夫な人間に育てたつもりだったけれど、それは私の慢心や勘違いだったんだろう。憂慮すべき重篤な段階ではないにせよ、私の一生の懸案としなくてはいけないと強く思った。
 
 
人が人にできることは、きっとまだあると思う。