角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

まけるもんか。

 

あの、失礼かもしれないけど、とうきょうの人は学習しないのだろうか? 

毎年毎年さらっと雪が降るだけで大変なことになってしまうのは何故なんだろう。歩行に関してはコロバンドみたいのが一つあるだけでずいぶん助かると思うのだけれど。無駄に転んだり、無駄に事故ったりするのは、いいかげん回避したらどうなんだろうと考えるけれど、恐らく、そういう備えをなさっている人々よりも、無考えに暮らしている向きの数がとても多いんだろう。
 
毎年そんなニュースを見聞きするたびに「都会人だから、こういうのはお手上げ」と、言われているようで、微妙な気持ちになる。
 
こちらは結構な大雪のようだ。何年ぶりの、とか言う話だ。せっかくなので散歩に出かけた。

私のほうも飽きずに毎年同じような雪景色の写真を撮ってしまうけれど、実は少しも飽きていたりせず、ああきれいだと思うので、つい写したくなる。もし私に絵が描けるなら、同じ題材で描いてしまうかもしれない。だから、もしかしたら富士山をたくさん描いた人もそうなのかなと思った。
 
昨日、長谷川とくしちという人の本を読んだ。「なぜ本物だとわかるかと言えば、それが本物だからです。」とあって、驚いた。味わいに似ているとも書かれていたので、これはもうしみいるように理解できた。おいしいかおいしくないかは考える余地なく感じるものだ。それはわかるけれど、そうなるとますます自分には何も分からないのだという気持ちが強くなる。
 
また、この本の中で知った、かもいれいという人の作品を是非とも見たいものだと思った。
私がなぜ固有名詞にひらがなを多用するかというと、ここに知らない人がたどり着くのを恐れているからだ。たどり着いた方だってきっとびっくりすると思うし。
で、そのかもいという人を検索してみると昨年、没後の周年記念の展覧会が各所巡回で終了したところだと知った。私はいつも何か遅れてしまう。かといって、昨年知ったところでどうにも身動きはとれなかったのだけれど。
  
私はまだまだ飽きずに例のyoutubeのドボルザークを再生していて、聴くたびにをををと思う。きっとあなたがあなたの好む作品を見るというのはそういうことなんじゃないかと考える。
 
私は時々ものすごく疲れてしまう。あなたに近づきたい一心で背伸びをしてきただけで、実際は不感症のように何も感じないこともあって苦痛だ。時々降りたくなる。何も感じない私ではきっとダメなんだろう。

自分が覚えたり聞きかじったことの全てをからっぽにしたいと思う。雪の山に頭をつっこんで冷やしたくなる。私に芸術は無縁だと心からきっぱり言えたらどんなにすっきりするだろう。デザインされたものも私は時として嫌いだ。うんざりするくらいデザインがあふれていて、街が騒音で一杯なのと同じくらいにデザインがあふれていて、気持ち悪くなる。

私を満たすものが何か、私は分からない。あるいは満たされることなど望んでいないのかもしれない。
 
それから私は卵が巻けない。すっかり食べ飽きたこともあり、練習する目的がなくなったこともあり、もうずうっと作っていなかった出汁巻きをひさびさにやってみたら、巻けなくなっていた。
何にも所属せず、なにものでもなく空っぽで、ジョジョなら無駄無駄無駄無駄というところだろう。寂しさすら私は感じないのだ。寂しさというよりも、私はいつも考えてしまう。どうしてあなたと話ができないのかと。制限をかけているのは何なのか、この親和性のなさはなんのせいなのかと考える。ただ不思議に思う。