角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

語らないのは私のほうだ。

 

隅々まで丁寧に見たわけではないけれど、河鍋暁斎の本は良かった。図書館でパラパラとめくって、下絵があったので借りた本だ。下絵がとても良いと思った。見ていて楽しくなる。飽きずに眺めることができるのは凄い。
 
ピダハンはやはり全部読み切れずに返却した。作品の読み方としては違うのかもしれないけれど、その本から私が欲しい情報は何なのかを考えると、多分ダイジェストのようなもので良いのだと思った。何をいったい自分が知りたがっているのかが分からないのだけれど、いつか機会があればまた借りてきたい。
 
私には絵や書を見るのに何の素養も下地もなくて、ただ見るだけなので、それならやはり自分の性分としては時系列でものを見たいと考えるし、有象無象から時代に淘汰されてきた作品の価値というのはあると思うので、分からない時はクラシックにあたるなり、「名画」と称されるものを見たりして、せめて自分が好きか、まだその良さが分からないかくらいは、料理の味程度に言えたらいいと思っていた。料理の方は別に私はなにものでもないけれど、お店や作り手の名前にこだわらず、美味しいかそうでもないかくらいは憶せず言えるようになった。まあ大体は私は何でも美味しくいただけるけど。
 
ともあれ、時系列にこだわると、私は一生かかっても現代美術に追いつくことがないことになるので、そういうこだわりもまた窮屈なことだと考えるので、そういう意味では、例のギャラ社での短い経験は良かったと思う。
嫌な言い方をすると掃いて捨てるほど作家はいる。そして、体裁をつくろうと、私のようないい加減な物分かりのない人間にはどれもそこそこの良いものに見えた。
 
繰り返し書くけれど、私は何もわかっちゃいない。けれど思うことは自由だ。
 
先日、人からテレビ番組を紹介された。人から教えてもらって、少なくとも良いと思うから教えてくれたはずなので、難癖をつけるのはずいぶん性格の悪いことだけれど、残念ながらその良さを私はまだ分からない。私には、その作家の人が、その作家のスタイルを振る舞っているのだと感じた。それで眠ってしまったのは悪かったけど、昼寝では足りないくらいに疲れていたのだし、セックスの最中に眠ってしまったわけではないから、そんなに酷い仕業とも思えない。
 

 
話は外れるけれど、美術館はどうして静かなんだろうといつも思う。もっと話しながら見てもいいんじゃないだろうか。子供であっても、自分が今体験していることの認識ができて、それについて話すことができるなら、家族で話しながら見たっていいのにと思う。そうするとより心に強く残ったりして、豊かだと考えるのだけれど。
たまにテレビの日曜美術館を見ることがあって、その時にたまたま息子がいたりすると、我々はバカな親子なので、瞬間的に日曜美術館ごっこが始まる。あの何だかしんねりしたような、声を殺したような話し方で夕ご飯のおかずについて語ったりしはじめる。
 
美術館の中でも外でも、人はもっと闊達に話をした方がいいのではないだろうか。と言いながら、私は子供と話すときに、子供以外の全てについて思うことを正直に話すけれど、お互いに本音を言わないでいるようなところがある。確かにある。彼なりの、私なりの処世として。
 
そしてそれからあなたのことを思う。私のある種の息苦しさ、北海道弁でいうなら「あずましくない」感じは、非対称性に依るものだと思いつく。
 
私は、ひょっとしたら私たちは、失うことを畏れるあまり、決して得ることができなくて、バランスしない、映らないものが映っている鏡のような。