角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

去年の今日は。

 

ここ数年のうちで多分最も爽快で嬉しくてたまらなく感じた日は、去年の今日、店をやめた日だ。
開店動機が何であったにせよ、ひとつきちょっとの営業は苦痛だった。
 
私は時々些細なことが気になってたまらなくなるけれど、店は、終業時間に表のシャッターをおろし、鍵をかけ、裏口から帰宅することにしていた。裏口を開けると家主さんの敷地内だけれど、私が帰る時間はもう真っ暗なため、人感センサーのあかりをつけてくれた。
裏口が狭い上に、帰り荷物が、それこそダンボールやゴミや残ったおでんや使ったタオルの類で大荷物になる。そうすると荷物を出して鍵をかけようとする前にあかりが消えて真っ暗になる。で、センサーのあたりでゆらゆら手を振ったりすると点灯する。鍵をしめて荷物をつんだキャリーの方向転換をする前にまた消える。ゆらゆらする。
毎日それを繰り返すのがかなり嫌だった。人が何とも思わないようなことかもしれないけれど、どうせ何かをするのなら中途半端なものではなくて、必要十分なものであってほしいと心から思うので、家主さんはとてもいい人なのに、どうしてこんな役立たずなことをするんだろうと不思議で仕方がなかった。
 
たった一度来店してくれた老夫婦は、この店の前で小学生が車にはねられてしんだと、教えてくれた。私はそういう話をする人の料簡が分からない。
シャッターをおろして、中で洗いものや掃除をしていると風向きによってはシャッターがまるで誰かが叩いているように音をたてた。風は毎日強かったように思う。私はこわかった。こわくて早く帰りたかったけど帰れなかった。
 
店が誰かの役に立っているとも思えなかった。
 
だから店を閉じて本当に憑き物がおちたようにすっきりとした。今の仕事を辞めたところで、あのような喜びを感じることはないと思う。
 
 
飲食店の料理と今の職場の調理は全く方向性が違う。目指すところも違う。ストレスというほどのストレスを感じていないけれど、気分転換に家で料理するときはやはりとても楽しい。美味しくできると独りは寂しいので、誰かに食べて欲しいと思う。
 
意味なく赤飯を3合蒸かした。それから毎日赤飯を食した。もしかしたら私は家庭人になりたかったのかもしれない。
 
  
現在の職場では、きたる12月某日の忘年会の出欠を問う文書が貼り出され、躊躇なく欠席に○をつけた。こんな時、我ながら「私はエライ」と思う。空気を読もうとしたり、他の人の出方をうかがったりすることが全くなく、ただもう一目散に積極的に欠席するのだ。私の職階は会費を徴収される。岩盤浴数回分に匹敵するので欠席に決まってる。