角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

箒生活にする。

 
自分ちの掃除機が少し弱体化しており、忌々しい更新時期を迎えたわけだが、案外掃除機なしでイケるのではないかと思案中。
おりしも、私は棕櫚の箒をもっている。これは、店でほこりを無駄に舞い上がらせないためと、音を響かせないために買った箒だけど、実は箒で掃くという動作はとても楽しい。手箒なので少し腰が痛くなるけど、時間を選ばない上に軽くて取り回しが良い。
絨毯には向かないけれど、拙宅の安っぽいカーペットにはなかなかいい感じだ。もちろん塵芥の種類によっては吸い込みたくなる気持ちはわかるので、簡単な掃除機と併用しようかとも考えた。
 
けれどそういうどっちつかずの態度というのは、むしろ幸福感や充足感もどっちつかずになるかもしれないとも考える。箒は長い寿命であるため一生ものになるから、柄の長い、レレレっぽいのを新規購入しようかとも迷う。
いまさら箒生活に戻る気分というのも簡素簡単で良いものだ。しかしながら、ここでひとつ問題が発生。
 
箒文化の発展のためには良い塵取りが欠かせないものだ。どうでもいいと考えてホームセンターでプラスチックのを購入したけれど、静電気が起きて使い勝手がイマイチなことから、箒文化を憂慮することとなった。紙製かトタン製のを購入しようと思う。
 
ストレージとかクラウド技術を享受できる今日この頃は、翻って、「通信」がボトルネックになるんじゃないかとも拙い頭で考えたので、何かの発展や敷衍には相対するものも同時に進化することが必要なのだろう。
 
 
インターネットの時代になって、とわざわざ書くことでもないけれど、誰でもが簡単に記事をアップすることができるようになった。と同時に、記事中の誤変換によると思われる誤字が夥しく著しく増えた。一般の人の記事はおろか官公庁のホームページであれ、新聞社のオンラインサイトであれ、考えられないくらいに間違いが増えた。人は、自分の文章を読み返さないものなんだろうか、かつての校正者は絶滅したのだろうか。
 
私自身もときどき誤変換などの間違いをしてしまい、気付いたときは本当に恥ずかしい。気付かないままの誤字脱字があるかと思うとそれもまた恥ずかしい。
  
2chでは盛大に誤変換や誤った言い回しが蔓延する。それは、その「場」のなれ合いの面白さだったと思う。
しかし官公庁のページも新聞社の記事も2chではないのだ。毎日あきれるほどの誤字を見るにつけ、本当にうんざりする。せっかくの優れた文章がひとつのバカバカしい誤字のせいでその価値が半減する。「強力下」とは何事だ。
記事コメントの中で、そんなことは全く大した問題ではないと書いていた人がいて、私はものすごく由々しい問題だと考えていたので、これはとても驚いた。日本語は表音文字ではなく表意文字だ。音を文字にうつしとっただけではないのだから、見てすぐに、つまり読むよりも先に見て分かるという特質があるのではないかと考えている。だから正確な表記は思った以上に大切なのだと思う。
当たり前のことを大切なのだと言わなきゃならないのもおかしなことだ。
 
箒と、どう繋げようとしてるかというと、ちょっと苦しい。箒とちりとりの関係から連想しただけなんだけど、グローバル化っていうのは、多分、分かったり分かられたりするといいよね、という話なんだと思うけど、面倒な日本語を学習しようとしている人々がいるのはなんだかありがたくて嬉しいのに、一番身近なネットの文が誤字だらけだと、大いに日本語理解ひいては日本理解に支障をきたすと私は思っている。
それはグローバル化の道を「ただしく阻む」ことだと思うんだけど。
一体、どんな漢字をあてはめようと一向に構わないなんていうのはどんな鈍感さなんだ。絶望しそうになる。

何度も書くけど、官公庁のホームページにもとんでもない誤変換がある。観光サイトにもある。日経ビジネスオンラインにもたくさんある。ここのサイトは著者任せらしく、誤字はおろか数字の間違いもあるので、無料っていうのはそういう下品さを甘受しなきゃいけないことなのかと思った。編集者という仕事はなくなったんだろうか。なんでもかんでも自己責任だなんて連発する人は無責任な人間に決まっていると確信する。
 
 
私は暇にまかせて一日に2回くらい箒を使っているので余計なことを考える暇もずいぶんある、というわけだ。