ほうきの話を書く前に掃除機が届いてしまい掃除機の梱包を解く前にはすっかりほうきの話なんかどうでも良くなった。
風の日にちぎれていく記事犬、強い風の日のことだ、それから強い風が吹いてぬれそぼっていた犬がさんざんにちぎれていくところを私は見た、と思ったら、それは車道に打ち捨てられた雑誌なのだった。ぱらぱらとめくれて、犬から犬をひいた残りが世界観も失って、ちぎれてまいあがる時を数えて、そうしてそれからそのウロに、記事犬のつくる空間に、何か大切な知恵や啓蒙や世界のことやゴシップがぎっしりとあったかもしれない。
記事犬ほどの文字数もなく、とてもすくない語彙の中で、私は必死に考える、と、とてもいっぱいいっぱいなことに気がつく。言葉にできないけれど声にもだせないことがある。絵にも描けない面白さは竜宮城の話だ。自分が、かもしれない、の中で生きていくことは、そういうのは哲学的に何と呼ぶかしらないけれど、そんなことをどう表現したらいいかわからない。
ほうきの話は書きたかった。ほうきの話ばかりでなくもっといろいろな言葉を書こうとしても、私は、かもしれない世界の住人であるから、そんなに多くの言葉は持てずに、いっぱいいっぱいになる。
あなたがだいじょうぶかどうかということで、こんなにいっぱいになるとは思わなかったけれど、私の悲しみというのは、だいじょうぶかどうかの理由ではなくて、だいじょうぶかどうかを知るすべがないということだ。最愛の一部というのは常にちぎれていく気に満ち溢れた記事犬のあばら骨だ。