角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

あなたが見ているものは間違いではない。

 

よだれを垂らすような文章を書くもんじゃないなと思った。
上からも下からもよだれが垂れてる犬のような文章に惹きつけられるのは、犬だ。


何だか駄文が書きにくくて、困ったなあと思っていたら、それは自分が、何かこう自分の立ち位置のようなものをいちいち宣言したり、冒頭にお見舞いの言葉を入れたりしながら書かなきゃいけない気がしたり、あるいは人の言葉に何らかの迎合を加えたりしつつ書かなきゃならないような思い違いをしていたせいではないかと考えた。

私は私の書きたいことを書きたいように書くだけでいい。
だるい言い方だけど、自分の悲しみは自分で運ぶしかない。半分持って欲しいとか、いわない。


んなことを考えていると、ネットの記事でウェブ時代のコミュニケーション作法(笑)という対談記事を読んでしまい、まだ最終ラウンドにはなってないんだけど、いろいろ感じるところがあって、ついには「等身大」の話を思い出すに至る。

私は「等身大」の意味が分からなかった。

今でもドキドキしながら慎重に考える。むかし、誰かが書いたイベント案で、「等身大の蛙を作り・・・」とあったので、もうそれ以来私は、等身大が苦手だ。等身大に対する自信が持てないのだ。いわゆる顔出しボードをつくろうという話なのだと思うが、一体どんな大きさなのかを真剣に考えたことを私は忘れない。10数年経つが。

卓袱台と書かれたときは、咄嗟に卓球台を思い浮かべたので、頭の中にクボヅカがちらついて、あとの文章を理解する気力を失った。

それとこれとは全く何らの関係もないので、すでに駄文の収拾がつかなくなってきてるんだけど、最近ときどきデートする人と話をしてて、WEBの話になったとき、その人が、ネット上には(悪い意味で)いろんな人がいて危険だから云々、とかいうので、それはいわゆる「ネット人格」があるという話だと思うけど、それは全く違うと、私は考える。つまり「ネット人格」などないと、私は思う。

「あの人は、お酒を飲んで子供を殴ったりするところさえなきゃ、いいひとなんだけど。」だとか、「いらいらすると火をつけて回るんだけど、それがなきゃいいひとなの。」とか、そんな訳があるもんかと思う。
それは「いいひと」ではない。
ネットで面が割れないからといって、思う存分の嫌がらせをしたり、人を泣かせるようなことをしといて、ネット以外のリアル社会で「紳士・淑女」というのは、ありえない。ネットで嫌がらせをするのは、そういう人格の人であるし、やたらディすってくる人は、そういう人なのだ。それだけだ。ネット上をいつまでも非リアルと位置付けるのはおかしいと思う。人間は二次ではない。

電話もメールもご対面も、生臭い人間の挙動であって、ネット上に独特な人格があるわけではなく、独特な人格がある。事実はそれだけではないか。