角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

机だったか札だったか。

 
私は今日も仕事です。昨日も少し遅くなりました。漆器は私も何点か販売することができました。
購入したい人というのは奥の事務所にいても声掛けして買ってくださるようです。
 
さて。
始業は10時からなのだけれど9時30にはでてくるべき、と全員が強要されている。私は私の好きなように9時前に着いたりする。だから時間拘束は結構長い。
我々の仕事がはかどらないのは、ギャラリーの接客があるからだ。この前はメモ書きにきへんを書いたところで中断した。ギャラリーが立て込んでくると、何もかもが座礁し、食事をきちんととる時間もなくなってしまう。全員がそうだ。そのうえ単一のイベントだけを抱えているわけではないので、気をしっかりもたないと自分が何をしているのか分からなくなる。
 
ハレパネ作業は一畳分くらいの大きさから切り出して行く。力がないのと、手が小さいので定規を固定できず、ナイフが曲がったりするけれど繰り返すうちに少し慣れた。
 
この会社で仕事をするのは、夢がないので嫌だといつも考える。何とかしようと考える。あるいは夢を持ちたいと考えながら歩いた。
自分の夢とはなんなんだろう。小学生のように考える。
 
正社員になって少しばかりの昇進をしてボーナスや有給休暇をもらうことが夢なのなら、大方のサラリーマンは夢が叶っているはずだ。
私は、ギャラ社に特別な思い入れは全くなく、乞われるままに仕事をしていて、もちろん責任を感じて仕事をしているけれど、それ以上のものが見当たらない。展覧会やイベントや編集を通して代表者が思う思いや情熱を全く共有できない。熱を共有できるなら、会社を大きくしていこうと思えるかもしれないけれど。
 
では、休眠せざるをえなくなっている自分自身の仕事に戻った場合、それを通じて私はどんな夢を描けるだろう。考えたら、何もなかった。ただ慣れた仕事で暮していければ、という程度のものだったかもしれない。
 
そして自分がもう世間通念的には「夢」なんて持たなくてもいいような年代に入っていることに気がついて驚いた。人は夢がなくても生きていけるものなのか。
 
自分自身の、いわゆるピンとかソロとかいう感じで仕事をしないことに妙な罪悪感めいたものを感じたり、自尊心が傷つく感じを持つことは間違っているのだろう。でも何十年も自分で仕事をしてきた経験から、誰かのもとで働く、ということに「負け」感を感じてしまう。
 
私は「ちょうどよい」ことに非常にこだわりを持つ人間なのだと思う。忙しすぎて、ご飯を炊く時間もなく、部屋の掃除も行き届かないような生活は、この年代ではどうかと思う。私は私の忙しさを働いているわけではないのだ。
 
このあたりで出社にちょうどよい時間になったので行ってまいります。