角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

策略にはまったのか。

 

土曜日の日差しが強かったので美術館の裏手のパン屋さんに出かけた。知事公館の樹木から、ヒワのような抹茶色をした小鳥が私の歩く道に降り立って、囀った。
そういう時は、何か恩恵を受けたようでとても嬉しい。嬉しいことも辛いことも人に話さないのは人をすっかり諦めているからかもしれない。
 
うららかな町を歩きながら私はパンを買いに行くように旅に出られたらいいと思った。
たいていは極めて少ない荷物と、着飾る必要もないので普段着のままで出かけていくのだから、達成できているのだけれど、日差しを受けてなおさら思った。
 
旅に出て帰りたくないと思うのは、もちろん、日常で向き合わなくてはいけない様々なことから目をそむけて逃げるためだ。そして雀だとか空だとか道のりだとかに呆けてしまう。
 
土曜日の陽が落ちたので送別会に出席した。大勢の人と過ごすのは話の濃度が薄まって味わいが遠ざかる気がした。楽しくないわけではないのだけれど。
 
木曜日にギャラ社に行ったときに財布を忘れて5千円を借りた。送別会の時に返そうと思って用意していったのに返し忘れたのでメールをすると、夜更けに電話がきて、仕事が回らない、困る困ると愚痴るものだから、つい、それは策略的な要素も考えられるのだけれど、つい、現今パート主婦がだめなら、私がやります、みたいなことをうっかり口走ってしまい、これから私はどうなるんだろう。また分からなくなった。
もちろん自分の仕事を捨てないのは当たり前だけど。
 
  
仕事を手伝うことで何が一番嫌かというと、第一にそれは私の会社ではないということだ。可笑しいくらいに何もかも正反対なのだから、私は彼女の影として機能し、万一輝いたとしてもいぶし銀どまりにとどめなくてはならない。しかしながら銀は似合わない。私には銀の繊細さも、派手の「は」の字もない。作りそこなった農具のようなものだ。素朴であっても役に立たないという意味で。
 
あっ。輝く要素は何一つないので心配することもなかった。
 
あと、土曜日に考えたのは、私が元のような文章を書けなくなったのは体内リズムを失ったからではないかということだ。
以前、文章を書きたい時というのは、リズムが先にあったのだ。声に出さずに頭の中で読むときのリズムが。
 
とても抑圧的な中で思いがけずリズムは取り戻せるのかもしれない。制限の中にある自由とか、そういうの好きだし。無制限の中にあるのは自由ではなくてきっと孤独だ。