角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

容れない容器。

 

暴風雨の雨が雪よりになった感じの最悪の天候の中を散歩がてら知人のギャラリーに向かう。誰それさんの展示があるからと言われていたし、旅行のお土産も早く渡さなくてはと考えているうちに不適切な天候の日を選んでしまった。
 
いつもながら、こういう展示にはとても考えさせられる。展示品目は服やハンカチやアクセサリー、袋物といった布関連だったけれど、冗談抜きで私にはゴミにしか見えなかった。別に誰の悪口を書きたい訳でもないし、作家の人はかろうじて名前を知っていると言う程度なので、何か恨みがあるわけでもないけれど、そういうものの良さや面白さを全く私は理解できない。多分「見るのも嫌だ」というような分類に入るかもしれないくらいにゴミだった。
  
何故私は何をゴミだと思うのだろう。モノはどこからゴミになるんだろう。アートだと名乗った瞬間からなのか。
 
たとえば洗濯ネットを使った巾着のようなものがあったとして、それは全く素敵ではないし美しくはないし役にも立たないと私は思うのだけれど、どうなんだろう。たとえば、実際にはなかったのだけれど、ワイシャツの形を残したエコバッグのようなものがあったとして、一体誰がそれにほれ込んだり、あらいいわね、といってお金を払って持ち歩くのか、私には想像もつかない。
 
服といえば、勿論世界にただ一つ、そんなものを量産されたらかなわないと思うけれど、何か不可思議な別布をぐるぐると縫い付けたものだとか、実際にはなかったけれど、ポリのゴミ袋をスカート部分にまきつけたワンピースのようなものがあったとして、以下同文。何点か展示されていたワンピースが5万円以上だったのは身体が冷え冷えとする気がした。
 
斯様なものを身にまとう人がいるのだろうか、いるとしたら一体どんな属性をお持ちの人だろうと、不思議が不思議を呼んでしまうのだった。私なら、もしプレゼントされたとしてもソッコーでゴミ箱行きだ。袖を通す気持ちにもならない。5万円払うのではなくて5万円くれるのなら引き取ってもいいレベル。
 
私はアートに無理解なのだろう。何度もしつこいけれど、こういうのを掛け値なしに純粋に有り難がったり面白がる人は実在するのだろうか。私は解らない。ゴミも積もればアートとなるのだろうか、作家の知名度があればゴミに値段をつけても売れるのだろうか。
 
けれど、もしかしたら歪んでいるのは私の方かもしれない。製品としての技能的な卓抜さのみを判断基準にしているのかもしれない。それでは私は何をみるべきなのだろう。製品クオリティ以前の、かつデザイン未満の「何かつくりたい欲求」こそを芸術性として感じるとよかったのだろうか。
でも、花瓶と名前がついてるくせに、ひとつも花のことなんか考えてない焼物やガラス瓶のようだと思ったのだ。私は良く知りもしないくせに「用の美」というのが好きなのだけれど、「用」ではない場合で「美」でない場合を前衛とあるいは呼ぶのだろうか。岡本太郎は芸術はいやったらしくて受け容れがたいものだと言ったけれど、そういうことなんだろうか。私は先日泊まったホテルの部屋に小さい額縁があって、その中の小さな絵というか線画というか知らないけれど、それがどこかで見たせいかもしれないけれど、とても好きで、そのホテルをますます好きになった。
 
でも私はやっぱり無教養な門外漢かもしれない。こないだ見た茶碗だって魂を掴んで離さないというような体感はなかった。なんというか、「民芸品」なのに崇め奉られているのは気の毒かもしれない。
 
もしかしたら、すっかりすれっからしたお茶関係の人たちが、たまたま器の形をしているだけで、「それで充分、充分、役目を果たすし」とか「どうせ誰にも良し悪しとか分かんないだろうし」みたいなノリで使っているうちに、それで充分がそれこそが充分みたいな言い換えになったのかもしれないし。
あ、あの茶碗の来歴は良く知らないけれど、一体茶碗としての本分を果たしたのだろうか、つまり、実際に使われたことがあるんだろうか。ご飯でも、お茶でもいいけど。もし何も入ったことがないんなら、熟さずに枯れた果実のようで哀しい。
 
この前亡くなった前衛の人の作品にしても、ああ面白いと思うものと、全くどうにもと感じるものとあって、だから人で追いかけるというのも余程の素直な目がない限り、こわいものだと私は思う。自分のように軟弱なものなら、要するにブランド志向の罠に嵌ると思うのだ。そのブランドの作品であるから好き、だと見もしないうちに決めてかかるような。
 
パッとしないところや悪いところや汚いところも弁えたうえで丸ごと好きだと言うならそれは理解ではなくて愛だ。愛情は理解ではない。
 
ごちゃごちゃ、ついうっかり書いてしまったけど、そんなギャラリーとアートショップと事務所と、つまり彼女の会社でバイトをしないかと言われている。ははははは。私はどんな顔をしてゴミをお奨めできるだろう。私の中の葛藤をどう折り合いすればいいんだろう。っていうか、私につとまる気がしない。詳細は後日面談のココロ。
 
 
えーと、それから。人に表現を云々するなら私自身はどうなのかというと、私はさまざまなごちゃごちゃを通して、私の表現したいことはいつも一つだ。それを馬鹿の一つ覚えというんだけれど。あなたは解りますか?