角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

裸足で来られても。


たまたま目についた現代短歌。
 
「雨だから迎えに来てって言ったのに傘も差さず裸足で来やがって」
 
盛田志保子さんという人の作品だそうだが、とても好きだ。
いつか私もこんなすてきな歌を詠めたらいいと思う。全くつくったことはないけど。
で、盛田志保子さんを調べたらたくさんあるうちに、こういうのがあって
http://d.hatena.ne.jp/yamawata/20081105/1225886509
 
やっぱり好きだなあと思う。でも、凄いと思うのは、これを評している人の文だ。どうしてこんなに人の文の中味っていうか、いろいろが解るんだろうと思うくらい、様々な人々が様々の人々を評する文に出くわすと、本当にいつも驚く。
 
自分は全くそんなことは書けやしないし、あまり人の気分をきちんと解るほうではないので、なおさらだ。うまいこと書けないんだ、私は。
 
この歌はとてもいいと思うけれど、そして志保子さんは感動してるっぽいけど、私なら裸足で来られるようなそこまでの熱は全く要らない。
 
で、ギフトのことを、突然ですが、思い出した。うん、どーせ脈絡とかないし。
 
ギフトとかプレゼントとかってものすごくお洒落な感じに、それこそ個性の表現のような出来栄えで仕上げることは可能だけど、いちばんその人を想っている人からのギフトっていうのは、もしかしたらとりとめもなくてダサい箱になるかもしれないと考えてた。母親は、いろいろ捨てて、これ一つでこの色っきりで、粋なギフトをつくろうなんて、思いもしないと思うんだ。
 
愛情はそんなにかっこよく決まらないと思う。
 
それで自分だったら、長靴をはいて、傘をさして、ビニールの袋かなんかも用意して、おまけに相手の長靴も小脇に抱えたりして、もう野暮そのもので、走っていったりすると思うので、それは愛しさの咄嗟の発現の仕方の違いだけれど、にもかかわらず志保子さんなら、長靴を差し出されて感動するかというと、全く疑問だ。
 
抱える思いが強くありさえすれば、相手を感動させるというのは、だから間違いだと思う。母親ライクな愛情には、あんまりサプライズとかないし。