角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

えびおち。

 

エビの背ワタをとったときに思ったものだ。信じているのは言葉なのか私なのか、それとも信じていないのかを。
 
私は会社であった。だから、私の意思は会社の動きに直結した。一つの会議なく、一つの打診なく、一つの根回しなく、私がしたいことは会社の意思であった。その背ワタ系統をようやく解消したので、もう、ほとんど背中の下あたりで59だ。
 
私がエビなら背ワタのあったあたりが疼きまくって折れまがるところだ。
 
私はおかしいと思う。
私が59のとき、あなたがいないのはおかしいと思うのだ。
 
 
家のビルトインコンロには、Siセンサーがついていて、肝心な時に「ちょっと加熱しすぎじゃない?」って感じで火が消えてくれる。今日はさんまの片面しか焼いてないのにグリルの火が消えた。大根おろしを待たせたままに。
こないだもソーセージを炙っていたら、もうちょっとのところで消えた。
 
余計な機能は当初の目的や意味の本来を曖昧にする役立たずだ。
 
けれど実際のところ、余計でできているのは私だ。
余計が疼いて折れまがっているのが私だ。
 
 
フランス人シェフは、両手があるのなら両手を使えとおっしゃった。
私は私であるという私に、あなたであるあなたは差し向かい、あなたは五感を使って私を信用してくれたらいい。

 
 
人はふしぎだ。
誠実な善人である人に1ミリも惹かれず、いくじなしでうそつきだと悪態をつきたい人を愛しいと思う。