角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

クリスマス行為


「頭を良くする方法」をググった。頭の良い人は手先が器用です。とあった。
すみませんが私は不器用です。
 
昔見たサイトでは、鼻が悪いと頭が悪いって本当です。と書いてあって、しばらくこの言葉のとりこになったことがある。
 
この1週間ばかり、鼻風邪をこじらせてしまい、難儀をしており、いつにもまして、まごうことなき頭の悪い人になった。
 
鼻が詰まっていると、幽体離脱もなかなかできにくくなる、という記事も読んだ。
 
さような可能性も否定されてしまい、薬のせいでいちにちじゅう、うつらうつらとしていて、真性の「うつけもの」になった気がした。まあそれほどいつもと違いはないんだけど。
 
そんな哀しい風邪の日に、事務所の女子が紙コップに入れた珈琲牛乳をくれた。
 
なんということだ。
 
私は珈琲牛乳を好まない。はははははは。
 
私は女性のいる環境というものにとても慣れておらず(おらずってのもおっさんくさい言葉だ)、避けられるものなら避け続けていたかったのだが、世の中はそんなに甘くなくて、珈琲牛乳は冷たくて甘くて、体調は絶不調だった。
 
小心者なので、それは好まないなどと、せっかくのご厚意にそんなことはいえないので、だから、かような気配りをしていただく場合の女子力というものを私は少し疎んじている。
いらないときに要らないとか、嫌いなときに嫌いだとすっきり言い難い不便さが煩わしい。
 
私は牛乳を一年に1回か2回しか買わないし、生牛乳は飲まない。酪農王国にあるまじき女だ。
それ以外の酪製品は大好きなのだが、第一牛乳は、いつ飲んだら良いか分からない。朝は朝ご飯、昼は昼ごはん、夜は夕ご飯の、どこに牛乳を登場させて良いか私は分からない。
 
バナナにしたってそうだ。
一日のどの食シーンにバナナを存在させるのか。たまにバナナを与えられるとき、っていうと動物園ライクだが、どうしたものかと考えあぐねて真っ黒くしてしまう。
朝食にバナナを、と無責任にいうけれど、味噌汁とバナナは合わない。お茶の後先に牛乳は要らない。
 
そんなわけで、牛乳とバナナは、健康志向である私の食生活の困りごとだ。
 
どんどん話が反れていって、もうまとめらんない。
何の話を書こうとしてたのかもわかんなくなってきた。
 
 
んと、なんで頭を良くする方法をググったのかというと、頭が良くなりたいからにきまっている。
 
頭が悪いのは鈍感だということだ。
 
鈍感でいるほうが、あまりチクチク感じないのでいいと思っていたら、鈍感さは人を傷つけると、これまたどっかで読んで、びっくりした。で、傷つけようとしてないひとを自分のまぬけさで傷つけてしまうんなら、そしてその人がすごく大事な人だったらとても困るから、ああ頭が良くなりたいなあと思った。
あと、難しい会話についていけないので、ついていける人になりたいと思った。
 
でも、私が鋭敏な人になったら、自分のクリスマス行為が、大体いつも12月の20日頃までに終了してしまうことに歯をくいしばったりするかもしれない。
 
クリスマスには特に興味も思い入れもなく、ケーキも買ったことがないし、意味わかんないとか思うんだけど、それはそれとして「大義名分罷り通る」の日だ。あなたは私の箱を開けて、私が捨てたいろいろを眺め、私はあなたの箱を開けるけれど、箱は闇で、あなたがどんな顔をしているか、視姦するときのような怒った顔つきなのか、猫笑いのにやにやなのか、無関心の白い顔なのか、私はわからない。わからない箱の闇に私は身を投げる。メリークリスマス。