角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

香辛。

 
土がついたまんまの深谷葱は直径10センチくらいに、たばねらテープでとめられ、長い葉先をたたまれ、透明袋に入れられ、きっちりと新聞紙でつつまれてから、さらに透明の袋に入れられて届けられたので、葱はずいぶん受動態だ。
 
大きな葱束を広いテーブルの上に置いて、帯を解くように広げるのは気分がいい。
 
1本焼いた。こんがり焼いた。
 
七味をふって、鰹節と生(き)醤油で葱を食べようとした私の台所に、冷蔵庫に、食器戸棚の引き出しに、七味はなかった。私は冷やおろしを抱えたというのに。
先日まであった幸福を捨てたのは私だ。七味も山椒もゆず胡椒も消費期限は駆け足でやってくる。
 
  
 
事務所のスチールキャビネを開けると紙コップがひとつあったので、お湯か水を飲んでみた。
 
飲んでから気づいたのだけれど、私は初夏の頃、エゾサンショウウオのプノンペン、というのは、エゾサンショウウオに是非つけてくれと頼まれてつけた名前なのだけれど、そのプノンペン給餌専用の白サシ入れに紙コップを使っていたのを思い出した。それがあれとは限らないけれど、とにかく。
白サシというのは釣り餌用の蠅の幼虫だ。
 
私は終始無言で紙コップを捨てた。事務所に誰もいなかったのでそれは当たり前だ。けれど、誰かがいたところで、私は、そんなことを騒ぎ立てたりしない。先日のスリップ事故の時だって、「あ」とも言わずに、静かに滑ってぶつかったんだし、私は「きゃあ」が、よくわからない。生まれてから一度も発したことがない言葉なので、よくわからない。
 
でも「きゃあ」って言う時には、しがみつく腕がそばになきゃいけないと思うし、七味を使いたいときに使うためには、多頻度多量で消費しなきゃいけないんだと思う。
 
だけど意味不明なクラクションみたいに「きゃあ」を連発したところで、積もるほど七味をふりかけたところで、そんなに大きな違いはないのかもしれない。

なぜなら、学生んとき、えらく美人な仮称ゆみこさんには素敵な彼がいたけれど、「ふたりでいても寂しい」と仮称ゆみこさん当時19歳は言ったのだ。
卒業後に迷いなく彼と結婚したけれど。
 
それこそが、私が葱を焼いては七味唐辛子を考える理由なんだと思う。
 
あなたの文章の、行の隙間、文字の間、段落のかげ、濁点の脇、とじ括弧のなか、を吹く風こそ。