角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

ラテン一刻。


さて、あちこちと言えるほどのあちこちではないけれど、歩いていて気がついたことがある。
札幌には美人が多いということだ。
 
おそるおそるバイト1号君に言うと、「み~んなそう言ってる」と一般化した返答をよこした。
東京がアメリカならば、北海道(札幌)は北欧だ、ともいう。
これには極めて納得しまくった。感動すら覚えた。
 
だがしかし、私と北欧は何らの関係もない。
 
 
春先に私が全レギュラー仕事を失った時、たまにお昼の食事をご一緒していた友人に、事情をお伝えした。途方に暮れていたわけではなく、ただ淡々とお話しした。
その後、連絡を取る必要があって、メールをさしあげたのだけれど彼女から返事が返ってくることはなかった。
 
一方、たまに夜の鍋なんかをご一緒していた友人から電話が来た時、ただ淡々と事情を話した。事情を知って、じゃあ企画書を1本書いてくれという。作成した後、彼女から支払いが行われることはなかった。私は企画書作成のプロではないから、まあいいかなと考えた。
 
潮が引くように人は遠ざかる。
貧乏が伝染らないように、面倒を憂慮して、厄介の思惑から、関係性の外へと気配を絶つのだ。
 
人は逃げて当たり前なので、どうでもよかった。何度もそういう光景をみたので、またかと思った。
去っていく人はそういう人なので、変わり身の早さに驚くことはあっても、残念感はなかった。
  
旅行なんかもしたので、ふつうよりも楽しい日々を私は過ごしていたし、仕事もしていた。
水槽に魚も飼ったし、サンショウウオだって捕まえたんだし、事務所のベンジャミンは無数の花を結んだ。
 
数年先数十年先の自分の暮らしを考えてどうするんだと思う。
 
その時自分が暮らせるあてがないということと、その時自分が生きている保証もないということはどっちが確からしい、場合の数の大きさであるか、私は分からない。
 
考えても解決しないことを考える意味があるのか。
 
私は、なるようにしかならないと思うし、こうなればいいなあと思うと大体そういう風に人生が回りだすから、せっせとヒコーキに乗りたい、遠くへ行きたいと考えていて、今年は5回、旅の人となった。北欧というよりラテンだ。
 
余談だけれど、何系とかの話をしてたら、お前はドーミン系だと言われた。
さいですか。