角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

言葉で見てしまう。

 

言葉で説明できることは、理にかなってないような気がする、という脳科学者の人が書いた文を読んでちょっと思いだしたんだけど、私は、絵とか彫刻とかを見る時に、言葉で見てしまう。

「今これを見ている自分の気持ち」を、せっせと頭の中で文章化しながら見ているので、それは少し本意ではない気がしていた。

滔々と流麗に知的な言葉をならべて感覚や評を述べられている文章に出会うと、実はとても悔しい。

文章の巧みさにおいて劣り、それ以前に感覚の鋭敏さにおいて劣りしているのだと思うとうらやましくて、つい「そんなのなんて」と僻んで拗ねた見方をしてしまう。

そうして、遠ざけておいて、その文章を書く人に対して大きな苦手意識を抱く。

何だか駄文を書くのがだんだんいやになる。書けば書くほど、ぐずぐずと泥舟に乗って沈んでいくような気がしていやになった。

「言葉で見る」のをやめたいんだ。
表現に文章を介在させると正しく伝えられない気がする。少なくとも自分には。