角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

鬱の話。

 

事務所で、鬱の話になって、私の身の回りには、引き寄せるか引き寄せられるか知らないけれど、鬱中、鬱後の人がやたらと多い。事務所の同室者もそうだ。この人は、好き勝手をあまりデリカシーもなく言ったりしたりするので、実は私はとても楽だ。こまごまと気遣いされるのは、私は苦手だし。

で、前回私が長年の顧客を喪失したときに、鬱になるぞ、となんだか嬉しそうに言われた。
私には一向にその気配なく、今回の波は前回よりもはるかに大きな波だけれど、だからといって一向にふさぎ込む気配すらない私を見て、お前が鬱にならないのは、何も考えてないからだろう、と言い放つ。

大きなお世話だ。
以前私に「もう少しものを考えた方がいい」ときつく言ったことがあったけど、最近は諦めたのかもしれない。

 
「私、考えたんだけど」と切り出すと、昔、事務所にいた女性社員は「ほんとに考えたんですか」と混ぜっ返した。母は、私が子供のときから「下手な考え休むに似たり」と、ボーっとする私に言った。
 
私は、自分が何も考えないで、なりゆきにまかせる方がうまくいくような気がしている。
何度も書くけれど、うまくいかなくてはいけないってわけじゃない。私たちはどこの道を通ったって、着くべきところにたどり着く。
 
私は、相手が鬱中だろうと鬱後だろうと特に頓着なく、容赦もなく、分け隔てなく、かばったりもしない。ただ、そうではない人に比べれば、おそらく自分自身と向かい合ったり自分自身について熱心に考える時間が長かった人たちだろうと思う。尤も鬱中の人とはあまり接触機会は持てないが。
 
同室者は、まるで私を悩み事のない風船のような女だと考えているきらいがある。
かつ、この「独特の陰り」を持つあたくしの「独特の陰り」を「ボサーッとしてるんだな」と言ったりする。まるで私の事実と違うことも思い込みで言ったりする。
何度言っても私をB型だと思っている。
 
要は私を理解していると思いこんでいて、その実はそうでもないんだけど、別にどうでもいい。
私は私をあるがままに理解して欲しい、と人にいったことなんかないし、それほど強烈に私を理解してくれ、とは考えていないので、どうでもいいのだ。
人は人を分からなくて当然だろう。自分自身のことすら良く分からないのに、他人がむやみに私を分かるのはおかしいことだ。
 
理解されない、というのはただただ説明不足ということだと思う。
 
だから、分かってほしいときには、分かるように分かるまで説明すると良いのだし、分かって欲しいにもかかわらず頓珍漢を言われたならば、「違う」と言って繰り返し説明すればよいだけではないのか。
受け取り手の問題ではないと、私は考えている。

誠実さというのは受け側の話ではないのだ。理解しようとする態度ではなくて、理解されようとする状態なのだと私は思う。

そう考えると、私はそんなに誠実な人間ではない。自分のようないい加減な人間は、ぎゃふんという目に遭った方がいいと前に書いたことがあるので、おのぞみのぎゃふん、だ。
 
あした晴れたら歩くスキーに行こう。