私は靴が好きだ。というより、気に入った靴があって、いつからか分からないけど気が付いたら、その靴のそばが好きだった。
何かいろいろ脱ぎ捨てたりして靴と一体になれないものかと考えた。靴の紐の先端が私の敏感に触れたりすることを考えただけで気持ちが甘くなって少し泣いた。私が靴を好きになってはいけないか。なぜいけないか。
靴は私にとって特定の異性である。
あのゴム長ではいけないし、ビーサンなんか考えられもしない。私は、その靴が好きなだけだ。
精神的な一体感を分かち合うことはできないけれど、それが何だろう。人間のひとだって分かりあえてるというのは錯覚だと私は知っている。
倒錯だというんなら、倒錯の何がいけないか。なぜいけないか。
私はあなたとセックスしようとしているんじゃない。その靴に焦がれているだけだ。
それのどこが迷惑か。だいいち仕事に恋愛を持ち込むわけじゃなし、恋は全くの私事だ。極めて当事者間のことだ。尤も靴は返事をしてくれないけれど。
成就しないといけないか。成就を願うのはご利益宗教めいている。
「恋に似たもの」なんかない。
いとしくあっていとしくもなく、焼き切れそうな思いを抱えていると自分が考えるならばそれは恋だ。
われ思う、それだけが恋だ。
以上、亀になり代わりました。
この亀は女ではないようです。細かいことはどうでもいいと思います。
動画を見ましたが、あんまり切ない声だったので、笑うわけにはいきませんでした。
大多数の属する側だから正しいとか、常識に外れるから不道徳だとか、そういう考えは自分にはありません。気持を理で括ろうとするのを無理というのでしょう。自分自身について語っているのではないけれど、恋というのは「対象とする相手があって、にもかかわらず全く相手を考えていない」状況の不条理なのだなと思います。
もっと素敵にうまく書けたのかもしれませんが、これがわたくし品質です。
ですます体はたいそう書きにくいでした。
-----
2023年注釈
靴に恋い焦がれた亀の動画がありました。