角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

とうきょうコンデンス

 

「とうきょう」をつけるのにも飽きちゃったし、早く書かないと鮮度が落ちるので急ぎ。

東京については、様々な人が、さまざまを言う。

私が驚いたのは道幅だった。

札幌の道路がずいぶん広いのは、積雪地域の方策だ。札幌の街並みが整然としているのは開拓使のなせるわざだ。官依存体質はここが発端だろう。札幌の建物がきれいなのは、歴史がないからだ。
歴史がないのに、赤飯には甘納豆が入る。北海道の赤飯は甘納豆入り、さまざまなサイトにそう書かれている。私はくやしくてたまらない。

北海道は40年くらいまえにやっと開道百年を迎えた、たかだか百年ちょっとの本州寄せ集めの地域だ。今、暮らしているのは4代目、5代目くらいの人間だろう。だから赤飯には甘納豆だという「伝統」なんかあるはずがなく、本州のどこかの地方のアイデアを継承しているのではないかと思う。
斯様に北海道、札幌の歴史は浅い。本州のような文化・伝統なんかほとんどない。


道幅だけでなく、飲食店の座席間も狭かったし、乗り物の座席もわずかながら小さいような気がしたが、そういった濃厚な距離感の中で処世するには、繊細で細やかな気遣いや、周到さが必要になるだろう。
他人との不用意な接触を避けるための技量が発達するのではないだろうか。無関心であることも含めて。

北海道では人と人との物理的距離は遠いから、鉈で割ったような大雑把なやりとりをしがちだ。
鉈の切り口が美しくない、ということに配慮しない。多少の行き違いがあっても、密着した生活があるわけではないから、そこに拘泥しない。

道のあるうちに帰らないと雪に降りこめられたり、列車が立ち往生したりする地域では、個人間の機微な情緒のやりとりよりも、凍死しない方を選ぶに違いない。無頓着で無神経なわけではなく単位が大まかであるとか、軸が異なっているのだと思う。

そんな密度事情や気候条件に加え、先に書いた歴史の深浅、さらには、海をひとつ越えた分だけ、言葉遣いのルールや言い回しの慣用的な意味合いなどは、本州とずいぶん違うと思う。齟齬の距離は不必要に隔たっていく。

そんなこともないとは限らないので、丁寧に駅員さんにお尋ねする。エキナカでお尋ねする。運転手さんにお尋ねする。そうすると「お尋ね者」の私にみんな優しい。
六本木であれ、どこであれ、緑もあればセミもしきりと鳴いていた。同じ空の下であることが少し嬉しかった。