角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

句読点を 撃て

先日SEOディレクターという肩書きの人と会った。
若く有能で、日本で20指に入るとか、道で5本の指に入るとか言われて、会った(トーナメントでもあるんだろうか)。

話すうちに違和感を感じ、そのピンとこない感じをことばで言い表すことができずにいる時、彼が「じょうせき」を「ていせき」と言った。

さて。

私はその手のイベントにひどくうるさい。
私には愛がないから、人のいいまつがいを訂正したりはしないが、「いま、ていせきっていったよね。いったよね。ていせきっていったよね。」
と、そこから先が遮断された。もう何を言われても私は恋するごとく上の空だ。

困ったもんだ。

優れた技術や才能があって、それを社会に還元するためには、言語や慣習の共通部分や共有部分の幅は広い方が、
より才覚を発露できる機会が広がって、ご本人のためにも、帰属する組織・団体のためにも、恩恵を受ける我々のためにも良いのではないか。

とゆーよーなことじゃなくて、自分がとっても。

通夜の法話で僧侶が「ニルヴァーナ」と言ったときもそうだった。「いま、ニルヴァーナっていったよね、いったよね」
と、そこから果てしなく妄想がはじまって、少しも通夜の悲しみを悲しまなかったこともある。
存じ上げない方の通夜だったということもあるけれど。


私は論理の人でなく甘党の人だ。


蛇足だが、自分が本当に好きな人の言い間違いや読み違いは訂正する。「因果ほーおーだよね」といわれたときは、
知り初めた頃ゆえ、聞き流した。
その後「クドクテンじゃないよね」だの「eがひとつ足りなかったね」など溢れる「愛」をもってして、心底嫌われた。


甘党でも辛い目には会う。