角度ノート

駄文も積もればログ資産。かもね

アントシアニン。

 

父のお墓参りは、息子と一緒に行き、帰りに寄ったスーパーで、すいかにしようかメロンにしようかと迷うと、大きなプラムだね、と言うので、思い切って貴陽プラムを買った。見事な大きさの紫色の上に、ブルームがふいて、いかにも美味しそうだったから普段の果物に598円はちょっと高いけれど、お盆のことでもあるし、と奮発。 
 
食後にひとつ皮をむくときはかなり固くて、酸味には強い息子も震えるほどの酸っぱさだったようだ。息子に味見をさせたので、追熟させようと放置を決めた。
 
放置が3日になり、4日になっても人造果実のごとくピクリとも変化はなく、自分の認識ではプラムは芳香中の芳香で、珈琲のごとくに味と香りを比べれば香りに軍配があがる食べ物であるにもかかわらず、香らず。
 
その間、別のスーパーに行くと、私が買ったのと同じくらいの貴陽プラムは798円だった。
 
私は勝ち組とか負け組とか、そんな思い方をすることはないし、人はさまざまで夫々だと思っているけれど、それでもやはりどうしたって別の世界の人たちがいるのは知っている。
そういう人達は造作もなく798円か、それ以上のプラムをお買い求めになり、芳香と甘さを苦も無く味わって種をポイッとお捨てになるんだと考えた。
私は「購入しない」という決断もできず、598円に瞬時ためらい、そして食えないプラムを買った。
 
なにこの暗紫色。
 
お盆から1週間たっても10日たっても変化はなかった。
 
購入してから10日以上も経つ果実にクレームをつける人なんていないだろうし、自分だってそんな愚挙はしたくないものだ。私はもちろん、立派なご商売をしているお店があるのも分かるし、商道徳とかいう言葉だって知っているけれど、未熟なプラムだの追熟しない青刈り梨だのを売って、不義理を果たす様なご商売をなさるんなら、その時の皺寄せがどうしたって、798円組ではなくて、598円組の私のようなクラスにくるんだと考えたら、ひとさまの幸不幸は一概には判断できないけれども、とりあえずプラム的には、不幸に見舞われるものなんだろうと考えた。
 
もっとたくさん考えた。部屋に扇風機が回ってた日から、扇風機を片づけたあとまでずっと考えた。
 
私は自らの意思で「不幸」を選んだのではないかと思った。なぜなら私は798円のプラムをすんなり買える「経済力」を得るための努力というものを全くしたことがないからだ。
父も母もあまりそういうことに積極的な重きを置かない生き方を選んだようだし、私もまたそういう生き方の方向性を方向づけられたようだから、今に至っても、私には、金銭欲がほとんどない。あるいはそのために必要な努力をしていない。
 
けれど、だからといって買ったプラムが「食えない」事実を、どういった理由で甘受しなくてはならないのだろう。欲のないことは悪徳なのか、自分の人生に対するネグレクトなのか。
 
10日以上すぎて、放置した一つを触ったら少し柔らかみがでてきて、ヘタの周囲に皺が寄っていた。
芳香は種類によるのかもしれない。全く香らないけれど、このまま捨てるのも惜しいので食してみた。
 

貴陽は濃紫色の強い甘味の果実になっていた。
 
2週間経って、1つ食すとまだ酸っぱかった。残り1つはまだ固い。
 
私には、幸せなこともあれば不幸せなこともある。
私が星取表のようにプラムに勝ったり負けたりするように、それはきっと誰だってそうなんだろうと思う。