4月の頭といえば、まだ先月のことだ。
ドアノーの写真を見た日は雨風が酷くて、こんな時にわざわざ出かける人なんていないんじゃないかと考えていると、それが結構いるところが東京なんだろう。
牛乳を買いに行く写真は、見あきない愛らしさがあるけれど、その日はとにかく風が強くてうんざりしてたから、もうみんな死んでるとか思って見ていた。
2日前だったか、大通公園のベンチに腰掛けて桜を眺めてたら、風が吹いて、花びらが横なぐりの雪のようだったので、慌てて写真を撮ったら、風も花びらも写りもしないで、桜だけが写った。事実は風であり、風にまう花びらであったのだが。
足元の花びらを両手で掬うと、それはひんやりと、かすかに湿り気を帯びた「量」だった。やがて不要の「量」なのだった。口をつぐんで死んでいく強情な儚さの「量」だ。
では、わたくしたちは、「さくら」の何が必要だったのか。